ヘイセイラヴァーズ

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春宵(短編小説)

 米津玄師「灰色と青」MVの菅田将暉に捧ぐ

 

 風の強い、漆黒の夜だった。薄い紙にこぼした濃い墨がゆっくりゆっくり染みこんだみたいなたっぷりした深い暗闇に、星は一つも見当たらず、月だけがゆりかごにするのにちょうどいいくらいに欠けていて、ゆらゆら揺れながらぼんやりと光っている。

 そんな月明かりの下に古いアパートがあった。そのアパートの二階の一室の窓から、彼はなにかを探すように外の道を見下ろしている。腐りかけて崩れ出しそうな水色の窓枠に腰かけて、薄赤くなった耳を音量を小さく落としたラジオに傾けながら。長い前髪の下で大きな目が月明かりを浴びて光っている。緑色の薄いカーテンが、開け放った窓から時折入ってくる風にくるくるともてあそばれている。

 部屋に入ってくる風は、花や砂の匂いがして、彼は顔を上げてぐーんと伸びをしてその匂いを思い切り吸い込んだ。のろのろした動作で煙草に手を伸ばし一本を抜き出す。ライターで火をつけた時、一瞬顔の真ん中がてらりと照らされる。彼は唇の間に煙草を浅くくわえたまま、長袖のティーシャツの袖を伸ばして頬杖をつく。吐き出した煙が白くもくもくと顔のまわりを取り囲んでは消えていく。

 その時突然ラジオの電波が悪くなり、ゴーゴーというくぐもった砂嵐の音が一定の調子で続き始めた。彼は立ち上がってアンテナを手に持って部屋の中をうろうろと歩き回った。なかなか元に戻らない電波に、イライラしてそのまま窓から大きく身を乗り出して手を伸ばすと、背後のラジオから突然クリアに曲のワンフレーズが流れ出した。

「どれだけ背丈が変わろうとも 変わらない何かがありますように」

 強い風がびゅうっと吹いて、ラジオはまた、砂嵐の音に戻った。腕を伸ばしたまま外の通りにもう一度目を落とすと、さっきはいなかった白い猫が一匹、明るい光の街頭の下で、こちらを見上げて、目を細めていた。姿勢のいい美しい猫。聞こえないだろうと思いながら彼は小さく舌を鳴らす。猫は顔を2回前足でこすると、顔を背けてするりとどこかに消えてしまった。

 彼は部屋に戻り、口に挟んだまま小さくなった煙草を、震える手でつまみあげて、クリスタルの重い灰皿にぎゅっと押し付けて火を消した。そして、スニーカーを履いて、ジージャンをはおってやっぱり行ってみることに決めた。花のにおいがたくさんする、あの公園へ。今日は約束の日だけど、そのことをあいつは覚えているかどうか、確かめに。