ヘイセイラヴァーズ

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続・失われた皮むき器について(短編小説)

   手に入れたものはいつか必ず手放すときがくることを彼は知っていた。そして一度手放したものは少しずつ忘れていつか思い出さなくなるときがくるということを。

 皮むき器がなくなっていることにショーが気が付いたのは、彼がマッシュポテト作りに取り掛かろうとした時だった。ショーは無類のスパゲッティ好きで、さらにスパゲッティをゆでるときは必ずマッシュポテトを付け合せにすることをルールとして決めていた。今日の具はミートソースで、スパゲッティをゆでるためのお湯も、ジャガイモをゆでるためのお湯も、大きな鍋の中にたっぷりふつふつとわいている。台所じゅうが湯気でもうもうとして、その中でミートソースの缶も開けられるのを今か今かと待っている。マッシュポテトに混ぜるためのきゅうりもハムも薄く小さく切られて、塩やコショウのビンも棚から全部出されて大きなスプーンがささっている。さて、ジャガイモの皮をむこうという段になって、ショーは皮むき器がこつぜんと失われていることを知った。

 台所のどこからも皮むき器は出てこなかった。マッシュポテトが作れないのにスパゲッティを作るわけにはいかない。まあいいや、とショーは思った。別にどうしても今すぐ食べたいわけじゃない。そしてすべての火を止めて、すべてを丁寧に棚と冷蔵庫のもとあった場所にしまいこんだ。そうやってすぐに食べる事をあきらめるからひょろひょろになっちゃうのよ、と頭の中の声がいじわるに言った。ショーは代わりに冷蔵庫から缶ビールを一本取り出してベランダのガラス戸を開けて座り込んだ。もうすぐ春とはいえまだ冷たい空気の中で、冷たいビールを体に流し込みながら、ショーは自分がこれまで失ってきたものについて考えた。

 二年前に鍋のふたがなくなった。そのあとにコーヒーメーカーのふたがなくなった。ふた関係に、どうやら弱い。そういえば、お気に入りの靴下が片方なくなったときは悔しかった。あなたは本当にそそっかしいんだから、と頭の中の声がいじわるに言う。もう思い出せないものもたくさんなくしてきたんだろうな、とショーは考える。これからはもっとしゃきっと生きなければならない。ある日突然ズボンが全部失われたりしたら大変なことになる。だけど、とショーは思い直す。それはきっと大丈夫だろう。ズボンは3、4着持っているし、それらが全部一斉に俺に愛想をつかすことはないだろう。どんな物語のどんな悪役にも、必ず一人は仲間がいるんだから。そう思ってショーは少し元気になって、立ち上がった。

 夜は、電車に乗って友達に会いに行った。すきっ腹に酒を飲んでずっと少しくらくらしていた。だから居酒屋のオレンジ色の光の下で彼らのまつげが光ったり、髪の毛の先が光ったりするのをぼんやり眺めていた。頭に浮かぶのはあの安っぽい透明のセラミックの皮むき器のことだ。いいから新しいのを買いなさい、と頭の中の声が少し優しく言う。

 帰り道、雨が上がったばかりのアスファルトの道がきらきら光っていた。皮むき器の刃がそこかしこで光っている。だけど代わりはない。

 どこにいったんだ、と小さい声でショーはつぶやく。俺の皮むき器はどこにいったんだ。雨上がりの冷たい空気がショーの身体に染みこんでゆく。俺はあれが出てくるまで包丁ですべての皮をむいてやるんだ、とショーは決心する。漆黒の闇がショーを包み、そしてその闇はやがてにじんでゆく。せせら、と風が笑う。

 家の台所ではさっきしまったと思ったジャガイモが一つ、転がってショーを待っている。

 ショーは手放してもなお、決して忘れられないものがあるということをまだ知らなかったのだ。