ヘイセイラヴァーズ

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伏線を宝石のように散りばめて(舞台『薔薇と白鳥』感想①)

 

 どうしてすぐに気が付けなかったのだろう。ヒントはあんなにたくさんあったのに。

 あの時のマーロウに、あんなに豪華な薔薇の衣装を自分で用意できるはずがない。プライドの高いマーロウが、簡単に人のことを自分より才能があるなどと認めるわけがない。ましてやネッドを選んだジョーンのことを妬けるなどと言えるはずがない。

 それが出来たのはなぜか?それは、すべて彼自身が書いた台詞だったから。

 すべては、芝居だったから。

 

 私たちはシェイクスピアに騙されたのだ。演じている髙木雄也があんまり純粋な男だから。マーロウにだって騙されていたのだ。演じている八乙女光があんまり可愛い男だから。私たち観客がみんな彼らのファンで、彼らのキャラクターを知り尽くしていることを逆手に取られて、完璧にしてやられたのだ。

  最後のシーンはシェイクスピアを説得する場面なんかじゃない。マーロウが用意した周到な脚本だ。それに持ち味のアドリブで台詞を返しているシェイクスピア。彼らは戯れていただけなのだ。脚本と芝居と神に愛された自分たちの才能とに。

 

 そうでなければ説明がつかない。シェイクスピアが舞台の裏で髙木雄也に戻ってしまう瞬間が三階席から見えてしまうことが。シェイクスピアの涙にほんの少しだけ感じる違和感が。 

 

 役者本人(八乙女)、役者本人が演じる役者本人(八乙女が演じている”八乙女”)、役者が演じている役(”八乙女”が演じているマーロウ)、役者が演じている役が演じている役(マーロウが演じている”マーロウ”)。グラデーションのように永遠に細分化し続ける演じ分けの層。誰がどのシーンのどの台詞、どこまでがどの段階の役としての演技なのかそうでないのか、誰にも説明できなくなっている。

  そしてそれは舞台の上だけの話ではない。私たちの日常だって同じようなものだと気付かされる。誰がどこまで演技でどこからがそうでないのか、それはいつもわからなくて、私たちはいつだって周囲の人間に騙されている。もしかしたら自分自身をも騙し続けている。そのつもりがないとしても、そうせずには生きられない。

 現実と演劇。本心と台詞。どこまでも曖昧で、だけどいつも私たちのすぐ横に引いてあるその境界線。この舞台が描いたのはもしかしたらそのことだけだったのかもしれない。

 

 舞台の上で炸裂していた赤と白の火花のせいで、いまだに目が眩んでいて。

 人生をフィクションとして生きる、その哀しさと美しさが頭を離れなくて。

 そして、境界線を見極めようと今もずっと記憶の中に目を凝らし続けていて。

 私は今、とても混乱している、そして苦しい。どうしようもなく。