ヘイセイラヴァーズ

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愛を知れば(ヘイセイジャンプ/考察)

 私たちはいつでも、危険にさらされて生きている。一晩で人生は変わる。例えばそれは、推しのゴシップ。

 推しを持つ者は幸せだ。見るだけで、考えるだけで幸せになれることがあるなんて絶対に生きやすい。だけどその生きやすさの代償に私たちはより多くのものを差し出さねばならない。崖っぷちに立たなければならない。愛を知ると人は弱くなる。

 先日推しのゴシップにガツンと遭遇した私は(率直に言って山田涼介の熱愛ですね!)、自分でも驚くほどの不調をかました。まずそのネットニュースを見た瞬間にお仕事の電話口で黙り込む、普段なら絶対間違えない電話番号を先方に間違って伝える、コピーを5部とるところを55部とる。目の下にクマ、手の震え、食欲だけは衰えない。朝起きてなんだか心が晴れないと思うとそのことが原因。こんなにオーエルの力を落としてしまっては、リアルに国力に響くと思った。

 こういう熱愛ゴシップに関しては、「彼女という存在よ、どうかデマであれ」とか「私が好きなあの手であの子を、、、アアッ」という類のやり場のない傷つき方ももちろんするけれど、それよりもむしろ、今まで自分にとってなによりも一番の味方でヒーローで、心のよりどころで、そして相手も同じように思ってくれているはずだった人が、本当はその恋愛世界において自分のことを「敵」とみなしていたのかもしれないという「側」の認識のギャップからくる圧倒的な悲しみの方を強く感じるとわかった。だからこそ次に怒りがくる。秘密とか反対とか障害物が多い恋ほど燃えるだろうから、自分がよりによって彼らの夜を盛り上げる薪的存在だったと感じれば、そりゃ誰でも怒る。だけどもちろん誰も悪くない。

 そんな時私たちはどうしたらいいのだろうか。私はヲタクとして尊敬している歌広場淳様の言葉を思い出す。

「すべてのヲタクよ、すべての推しを持つ者よ、手を取り合おう。僕たちは一人じゃない。」

 そうなのだ、私たちは一人ではない。今までずっと思いを分かち合ってきた仲間がいるはずなのだ。そしてすべての推しを持つ者たちが、自分の思いをわかってくれているはずなのだ。同担だろうが他担だろうが拒否などしている場合ではない。

 ヲタクはもはやその対象を離れ、その活動によってもたらされた何かの方が強い意味を持つようになる時がある。愛を知ると人は弱くなる。だが、それを通して得た何かは私たちを強くするのだ。そのことを知った時、私たちは本当に誰かを「推す」ことができるのかもしれない。