ヘイセイラヴァーズ

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あの場所で(短編小説feat.映画『ハナレイ・ベイ』)

 彼がハワイのハナレイ・ベイで鮫に喰われたという情報を私は先生から聞いた。外は雨が降っていた。

「いつですか」

 私は先生にそう尋ねた。先生はその事故があったのがいつだったか、という質問だと勘違いして、その時の様子を詳しく話し始めた。私が聞いたのは、彼がハナレイ・ベイに旅立ったのはいつだったか、ということだったのだけど。

 私は彼のことが嫌いだった。貸した雑誌に強く折り目をつけるところ、金遣いが荒いところ、すべての女の子が自分のことを好きだと思っているところ。ワガママで傲慢で数え上げたらきりがないくらいに。だけどあの、遠くの方にある何かとても大切なものを眺めているような、夢を見ているような目をそのままこちらに向けられたら、私はいつだって何も言えなくなってしまう。そういう私自身のことを私はいちばん嫌いだったのかもしれない。

 一度彼の家の玄関で靴を履いている時に、彼のお母さんがちょうど帰ってきたことがある。私は彼女の黒目がちな目を見た瞬間に「あ、同じだ」と思った。たぶんこの人も彼のことと、彼に振り回される自分のことがどうにもならないくらい嫌いだろう、と思った。

 そう思ったら、その狭い玄関に立っている彼女に何か言わなければと感じたのだけど、彼が何も言わずに先に出て行ってしまったので慌てて後を追いかけた。あいさつすらできなかったことをそのあとしばらく後悔し続けた。

 それから五年後、私はある街角で彼女に会った。信号待ちをしている時に不意に声をかけられたのだ。私はアッと声が出そうになってしまった。突然で驚いたからではなく、彼女の姿があの日と何一つとして変わっていなかったから。

 彼女はあの日と何も変わらない目で真っ直ぐに私を見て、「これをあなたに返そうと思って」と鞄から小さな紙袋を取り出した。どこかでお茶でも、と言ってしまってから、彼女と話す話題など何一つないことに思い当たった。彼女は小さく首を振って微笑みらしいものを顔に浮かべて、来た道を戻って行った。紙袋の中身を取り出して見てみると、それはたしかに私があの日彼の部屋に置いて行った赤いレースの小さなパンツだった。太陽の光に透けて、それはとても綺麗な模様の影を地面に落としていた。

 私が今、ただひとつ望むことは、身も世もなく眠ること、そしてそのあとで彼のことを際限なく思い出し続けること。だけど世の中はなかなかそうはさせてくれない。今だって、まだカップに半分以上残っているコーヒーを諦めて、私はもう行かなくてはならない。彼がいる場所から、ますます遠く離れて。

 

 さよなら、ハナレイ・ベイ、さよなら。