海を泳ぐ(短編小説)
私はTVの電源を切り、窓を少しだけ開けて流れ込んでくる外の風を吸い込んだ。
五月にしては暑い空気のどこかから虫の声が聞こえて、私はいつかの夏休みに泊まった祖母の家を思い出す。田舎の夜はやたらと暗く、窓から身を乗り出して伸ばした自分の手の先すらも見えない。濃い草木の匂いが不安で、だけどこの部屋にいる限りは何かに守られているはずだとどこかで確信している感覚。
ベランダに出て夜空を見上げてみる。そしてこのアパートは大きな船でここは水の真上に突き出すバルコニー、広い海の上に浮かんでいるのだと想像してみる。簡単に信じられる。なにも変わらない。しばらく地上には戻れないことも、星の位置だけが刻一刻と変わってゆくことも。揺れる水の色、揺れるカーテンの青。窓の外には水鳥が見えた。
朝に居場所を整えて、昼間は光の中で揺れる洗濯物を眺めて、夜は水と炎を使って自炊をして。すべてがこの空間の中だけで完結していく。閉じ込められたまま日々が過ぎていく。
あたたかい手が、空を見上げている私の腰に後ろからゆっくり侵入してきて、私は目を閉じてその手に背中を委ねる。昔々見た古い沈没船の映画をまぶたの裏に映しながら。
こんな時に申し訳ないが、私は幸せだ。この闇の向こうに目に見えない敵がいたとしても、悪意の気配があったとしても。私たちのことを思い出す人たちがひとり残らず寝静まった、何もない街の静かな真夜中。