ヘイセイラヴァーズ

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文書1(村上春樹ブッククラブに参加して②)

課題図書:『スプートニクの恋人

 

 私は今、語れば長い運命のとりあえずの帰結として、東京の小さなアパートの一室にいる。時刻は午前4時少し過ぎだ。もちろんまだ夜は明けていない。ワールドカップの試合を応援していた善良な人々はやっとベッドに入って夜明けまでのつかの間の睡眠を貪らんとしている。遠くの街では若者たちの無数のハイタッチが、地表を覆っているだろう。それでも私のいるこの部屋の空気はまだ青く澄んでひっそりと冷たい。

 (きっと)世界のどこにいても、私はこの時刻が一番好きだ。この時間は私ひとりのものだ。6時になれば、私はいつものように歯を磨いて少し化粧をして、それから満員電車に揺られていつものオフィスに向かうだろう。そのようにいつもの一日が始まる前に私はこのひと仕事を終えてしまいたいと思う。

 私はなぜ最後にすみれが「戻ってくる」という結末を信じて疑わなかったのだろう?たしかによく読めば、彼女が「戻ってくる」描写は、曖昧ではあるがKの夢である気配が濃厚だ。こちら側に残ったK、半分ずつ分裂したミュウ、あちら側にいってしまったすみれ。この最終構図はパーフェクトで美しい。でもそれだけじゃない気がする。もっと単純に考えてみようではないか。単純に、単純に。

 私はつまりおそらく、すみれに幸せになってほしかったのだ。だってあまりにもかわいそうじゃないか?家族ともしっくりこず、一番愛したひとには拒まれて、夢も叶わず、パジャマ姿のままであっけなくあちら側に行ったきりだなんて。なんのロマンチックさも余韻もなく煙のようにあっさりと消えただけだなんて。そのままではあんまりだから、私はお節介にもすみれにもう一度戻ってきて、そして幸せになってほしかった。いや、違うな。もう少し正確に記述してみなくては。正確、正確。

 私は、すみれに不幸せになってほしくなかったのだ。書きながらものを考えるところ、世間に馴れない感覚、午前3時に人に電話をかける傲慢さ。それらが他人事とは思えなくて、私は彼女と自分をはじめから重ね合わせていたから。まるで親のように、自分の分身に不幸せになって欲しくなかっただけのことだ。

 そうよね?

 そのとおり。

 すみれは最後に、あちら側でもこちら側でもない、Kのもとへ戻ってきたのだと私は思う。あちら側で見た未知の「幸せ」でも、ミュウに拒まれたこちら側の「幸せ」でもなく、Kという「不幸せではない」結末を取ったのだと。「そのへんにうようよしている世間知らずのトンマな女の子」の立派な一員のすみれなら、そして私ならばきっとそうするだろうと思うのだ。

 この文章は自分自身に対するメッセージだ。でもこれはブーメランのように闇を切り裂くこともカンガルーの魂を冷やすこともない。ずっとここにある。気温の上がり始めたこの部屋の中で静かに光っている。わたしにはそれがわかる。