ヘイセイラヴァーズ

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劇評『薔薇と白鳥』

RESPECT WONDERLAND/ROSE & SWAN

 

◎私たちの生きる現実は舞台の上の演劇と同じなのか

 

 メタフィクションというジャンルをどのくらいの人が知っているだろう?ネットでそれは「フィクションについてのフィクション、小説と言うジャンル自体に言及・批評するような小説のこと」とある。この舞台はまさに、そのメタフィクションに違いなかった。

 ストーリーは実在の劇作家クリストファー・マーロウとウィリアム・シェイクスピアが“もしも”出会っていたらという友情譚、そしてシェイクスピアの抱えた秘密を巡る歴史ミステリーだ。

 マーロウ役の八乙女光シェイクスピア役の髙木雄也はジャニーズグループHey!Say!JUMPのメンバーだから、当然の事ながら彼らのことを見に来ている観客が多い(私を含め)。ジャニヲタ用語でいわゆる「現場」と化した劇場。だがふたりを見に来た観客をいつしかストーリーの力で巻き込み、引きずり回し、だましおおせるような舞台だと私には感じられた。

 観劇後ほんの少しちらつく違和感をたぐっていくと私たちはとんでもない勘違いをしていたことに気が付く。ヒントはたくさんあったのだ。例えばあのマーロウに、あんなに豪華な薔薇の衣装を自分で用意できるはずがない。プライドの高いあのマーロウが、簡単に人のことを自分より才能があるなどと認めるわけがない。それが出来たのはなぜか?それは、すべて彼自身が書いた”台詞”だったから。すべては、芝居だったからだ。

 私たちはだまされる。シェイクスピアを演じている髙木雄也があんまり純粋な男だから。マーロウを演じている八乙女光があんまり可愛い男だから。脇を固める出演者の演技があまりにもスマートだから。みんな何食わぬ涼しい顔をしているから、舞台の上で炸裂する赤と白の火花に目が眩んでいるから、私たちは気が付くことが出来ない。回る舞台の裏側でシェイクスピアが髙木雄也に戻ってしまう瞬間が三階席からだけ見えるのだって、セットがやけに無骨なのだってすべて演出なのだろう。

 役者本人、役者本人が演じる“役者本人”、役者が演じている役、役者が演じている役が“演じている役”。グラデーションのように永遠に細分化し続けるその演技の層は、誰がどのシーンのどの台詞、どこまでがどの段階の役としての演技なのかそうでないのか、誰にも説明できなくなっている。演劇の中に演劇が入れ子になっていて、その境界線がわからなくなっている。

  そしてそれは舞台の上だけの話ではなく、私たちの日常だって同じようなものだと気付かされる。誰がどこまで演技でどこからがそうでないのか、それはいつもわからなくて、私たちはいつだって周囲の人間に騙されている。そしてもしかしたら自分自身をも騙し続けている。そのつもりがないとしても、そうせずには生きられない。

 現実と演劇。本心と台詞。私たちは混乱する。舞台の上の憧れの人間たちが生きる現実と、舞台の下にいる私たちが生きている現実の、どこが違うのかわからなくて。