ヘイセイラヴァーズ

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シロの言い分(短編小説feat. 『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』)

 

 窓を開けて、雨を見る。煙草に火をつけて、私は思い出している。私がまだ「ユズ」ではなく「シロ」だったときのこと。名古屋から遠く離れたこの町で。

 あの夜私は、たしかに彼の部屋にいた。彼の部屋は思った通りとても居心地が良かった。灯りはオレンジ色で、じゅうたんもベッドもふかふかで、あたたかくてこじんまりとしていた。私たちは、五人でずっと一緒に過ごした高校時代の思い出話をした。あの五人には特別なケミストリーがあったと思う、と私は彼に言った。

 「ケミストリー?」

 彼はハンサムなその眉を怪訝そうにひそめながらそう言った。

 「そう、そこにたまたま生まれた場の力。二度と再現することはないもの。」

 私はそう説明してグラスに入った赤ワインをすすった。グラスは小さいけれどきちんと柄がついているもので、表面には葉っぱの模様の浮き彫りがほどこされていた。今日はお酒がよく回る、この綺麗なグラスのせいかな、と私は思って指先でその模様をなぞった。

 「シロがピアノでよく弾いていた曲を流しても良い?」

 私の手元を眺めていた彼が立ち上がりながらそう聞いてきたので、何の曲?と私は振り返る。

 「ル・マル・ドュ・ペイ」

 彼はにっこり笑いながらそう言って、私の隣に座った。私は彼がその曲を覚えていてくれたことがうれしかった。懐かしい音楽が部屋を満たし、彼は話し始める。

 「ケミストリーといっても、それは最初から壊れていたんだよ。僕一人だけが、名前に色が入っていなかったんだ。それさえ入っていたら、僕らは本当に完璧なケミストリーで、ずっとあのまま一緒にいられただろうにね。」

 私の体が痺れだしたのはそのすぐ後のことだ。長い髪が頬に落ちかかってきたのが私はなぜだかずっと気になっていたけれど、それを払う力さえその時の私は奪われていた。


 私は震える手で二本目の煙草に火をつける。雨はなかなかやみそうにない。いっぱいになっている吸い殻入れは窓の外に隠すように置いていて、だけど一体私は何を何から隠したいのか、自分でもわからない。

 私はその夜のことを思い出すたびに混乱し、それでも何があったのかを必死にかき集め、みんなに順番に説明した。みんなはわかった、と言って彼を切ったけれど、私の話を誰も信じていなかったのは明らかだった。だけどそれは当たり前だ。なぜなら私自身が信じていなかったから。おそらく彼自身だって信じられていなかっただろう。


 この部屋に一人で住み始めてから、彼を今までのどんなときよりもずっと近しく感じることがある。死につながる扉を探すこの感覚を、彼もいつか味わったことがあるのだろうと私は感じる。彼と私の間だけのつながりを強めている気さえする。

 彼はきっとこの死の淵から生き残ったのだろう。私も生き残りたいと思う。そのために一人でここまで来たのだ。誰かがこの扉を開けようとしても絶対に開けないために。窓も素早くきっちりと閉めてしまうために。

 だけど頭の中で音楽が鳴りやまない。それはル・マル・デュ・ペイではなく、教会で子供たちに教えたどの曲とも違う。それは細い糸のような形をしてこの部屋に入り込もうとしている。がらんとしていて冷たいこの部屋に私がいることをちゃんと知っているのだ。