ヘイセイラヴァーズ

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ホテル・ホテル・ホテル(村上春樹ブッククラブに参加せずに)

課題図書:ダンス・ダンス・ダンス

 

 村上春樹の小説を読むといつも思う。主人公の男はどうしていつもこれほどまでにまともなのだろう、と。風呂に湯をはってそこにつかり、出かける前は歯を磨き髭を剃り、派手でない車で出かけて、ビールを飲んで料理をして、まともな食事をとって、たまにどこかに電話をかけて。そんな風にバランスを崩さず生活をしている(そこに相変わらず苛立つ私のことは置いておいて)。そうしていても、いろんな人と出会ったり、いろんなものを見たりするけれど、小説の最後では彼の手には何も残っていない。この小説自体が雪かきのようなものだ。元あった状態に戻るだけ。朝が来た、これしか確かなことはなにもない。

 大きなモチーフは「ホテル」だ。古いいるかホテルから始まり、建て替えられたドルフィンホテル、ユキと隣同士の部屋に泊まったハワイのホテル、五反田君が奥さんと泊まっている窓のないラブホテル、物語の最後もホテルの一室で終わる。ホテルに出張してくれる三人のコールガール。ホテルで働くユミヨシさん。小説のタイトルを『ホテル・ホテル・ホテル』に変えた方がいいくらいだ。

 そして、これらの「ホテル」のすべてに、私は泊まったことがあるような気がしている。それはもちろん勘違いで、だけど不思議とリアルにひとつひとつ部屋が思い出せるのは、「ホテル」というものは一卵性だと思うから。どんなに豪華でもぼろくても「ホテル」で感じる気持ちはいつも同じで、「どこか現実ではない」感じ。「ホテル」の部屋の中ではなんでもありで、そこであったことの手ごたえは自分しか持っていられない。「ホテル」は夢と生活の結び目だ。そのことが、まともな彼をこんなに混乱させている。ふん。

 彼はうまく、ホテルから現実の生活に戻ってこられたか?もうひとつの骨は一体誰のものだったのか?羊男の正体は?参加していないブッククラブのことで、頭はいっぱいである。

村上小説の思い出(エッセイ)

 村上春樹の小説を読むと思い出すのは、彼のことだ。

 村上春樹を崇拝していた彼。出会ってすぐにそのことで意気投合して、しばらくの間とても親しい友だちだった。何度か一緒に飲みに行って、酔っぱらって彼の部屋に転がり込んで、だけどあまりにもなにもない部屋にドン引きしてそそくさ帰ってきたりもした。

   私たちのもう一つの共通点はスピッツの曲で、一番お気に入りの曲が同じだった。「街道沿いのロイホで夜明けまで男女で語り合って始発の駅で別れる」という歌詞のその曲。そのイメージが強すぎて、彼を思い出そうとすると、行ったことなんて一度もない夜更けの街道沿いのロイホの風景が決まって目に浮かぶ。

 ある日昼間学校で会った彼は、私に一枚の紙を押し付けてきた。それは、彼が書いた、いかにも村上春樹が書きそうな、村上春樹風で村上春樹的な、短い小説だった。そのタイトルは『失われた皮むき器について』。内容を読んで私は、彼が当時付き合っていた女の子と別れてしまったのだと思った。あら、あまり性格合わなそうだったもんなあ、とか、かっこいい顔をしているんだからもっといい子がいるよ、とか、勝手な事を頭の中で考えて、私は私なりに彼を励ますために返事の小説を書いた。タイトルは安直に『続・失われた皮むき器について』。村上春樹が書きそうな、いかにも村上春樹風で村上春樹的な、でも私が書いた小説。

 にぎやかな飲み会の隅の少し暗い席で、私は小さく折りたたんだその小説を彼に手渡した。出だしのタイトルを見て私が予想したよりもうれしそうな顔をした彼に、私は「あとで読んで」とささやいた。恥ずかしかったからじゃない、こんなところで読んで感動して泣かれたら困ると思ったから。

 その日おひらきになるときに彼は私に近づいてきて何かを言おうとしていた。だけど無数の酔っ払いたちがそれをはばんで、結局聞くことはできなかった。

   それが彼と会った最後になった。それっきり、唐突に私たちは連絡が途切れた。なぜだろう。彼に渡したあの小説が原因じゃないといいんだけど。

 

 そう思いつつ5年経って、行方知れずだった彼の目撃談が、最近になってついに共通の友だちから聞こえはじめた。あの時に別れたはずの彼女と一緒に、山手線沿線をうろうろしているらしい。

    私はあのときとんでもない思い違いをしていたのかもしれない。彼は失恋なんてしていなくて、私はめちゃくちゃ早とちりの励まし小説を渡したのかもしれない。彼と連絡が取れなくなったのももっと現実的な理由なのかも。例えば携帯をなくしたとか、しばらく用があって実家に帰っていたとか。

 とにかく彼は今も元気だそうだ。大抵のことは、こんなふうにいたって軽やかに、さわやかに、明るく、私の人生とは関係ないところで進行しているものだ。ほとんどのことは取り越し苦労で、だから何も心配することはない。

  だけど私が彼と再会するのは、もう少し先のことになる予感がする。その時まで私はしっかり覚えていよう。たとえ彼が忘れたとしても、あの小説とあの完璧な友情の日々のこと。

続・失われた皮むき器について(短編小説)

   手に入れたものはいつか必ず手放すときがくることを彼は知っていた。そして一度手放したものは少しずつ忘れていつか思い出さなくなるときがくるということを。

 皮むき器がなくなっていることにショーが気が付いたのは、彼がマッシュポテト作りに取り掛かろうとした時だった。ショーは無類のスパゲッティ好きで、さらにスパゲッティをゆでるときは必ずマッシュポテトを付け合せにすることをルールとして決めていた。今日の具はミートソースで、スパゲッティをゆでるためのお湯も、ジャガイモをゆでるためのお湯も、大きな鍋の中にたっぷりふつふつとわいている。台所じゅうが湯気でもうもうとして、その中でミートソースの缶も開けられるのを今か今かと待っている。マッシュポテトに混ぜるためのきゅうりもハムも薄く小さく切られて、塩やコショウのビンも棚から全部出されて大きなスプーンがささっている。さて、ジャガイモの皮をむこうという段になって、ショーは皮むき器がこつぜんと失われていることを知った。

 台所のどこからも皮むき器は出てこなかった。マッシュポテトが作れないのにスパゲッティを作るわけにはいかない。まあいいや、とショーは思った。別にどうしても今すぐ食べたいわけじゃない。そしてすべての火を止めて、すべてを丁寧に棚と冷蔵庫のもとあった場所にしまいこんだ。そうやってすぐに食べる事をあきらめるからひょろひょろになっちゃうのよ、と頭の中の声がいじわるに言った。ショーは代わりに冷蔵庫から缶ビールを一本取り出してベランダのガラス戸を開けて座り込んだ。もうすぐ春とはいえまだ冷たい空気の中で、冷たいビールを体に流し込みながら、ショーは自分がこれまで失ってきたものについて考えた。

 二年前に鍋のふたがなくなった。そのあとにコーヒーメーカーのふたがなくなった。ふた関係に、どうやら弱い。そういえば、お気に入りの靴下が片方なくなったときは悔しかった。あなたは本当にそそっかしいんだから、と頭の中の声がいじわるに言う。もう思い出せないものもたくさんなくしてきたんだろうな、とショーは考える。これからはもっとしゃきっと生きなければならない。ある日突然ズボンが全部失われたりしたら大変なことになる。だけど、とショーは思い直す。それはきっと大丈夫だろう。ズボンは3、4着持っているし、それらが全部一斉に俺に愛想をつかすことはないだろう。どんな物語のどんな悪役にも、必ず一人は仲間がいるんだから。そう思ってショーは少し元気になって、立ち上がった。

 夜は、電車に乗って友達に会いに行った。すきっ腹に酒を飲んでずっと少しくらくらしていた。だから居酒屋のオレンジ色の光の下で彼らのまつげが光ったり、髪の毛の先が光ったりするのをぼんやり眺めていた。頭に浮かぶのはあの安っぽい透明のセラミックの皮むき器のことだ。いいから新しいのを買いなさい、と頭の中の声が少し優しく言う。

 帰り道、雨が上がったばかりのアスファルトの道がきらきら光っていた。皮むき器の刃がそこかしこで光っている。だけど代わりはない。

 どこにいったんだ、と小さい声でショーはつぶやく。俺の皮むき器はどこにいったんだ。雨上がりの冷たい空気がショーの身体に染みこんでゆく。俺はあれが出てくるまで包丁ですべての皮をむいてやるんだ、とショーは決心する。漆黒の闇がショーを包み、そしてその闇はやがてにじんでゆく。せせら、と風が笑う。

 家の台所ではさっきしまったと思ったジャガイモが一つ、転がってショーを待っている。

 ショーは手放してもなお、決して忘れられないものがあるということをまだ知らなかったのだ。

旧姓木野(短編小説feat.村上春樹『木野』)

 私は俗だ。私は俗な人間の代表で、彼はもう透明になりかかっていた。毎日一緒にいたのに。

 私が浮気をしたのは、彼を傷つけてみたかったからだ。彼が私の浮気を知り、めちゃくちゃに傷つくことを夢見ていたといってもいい。でも実際はどうだったか?あのエックスデーにベッドルームの中を見た彼は一瞬固まって、それから扉を閉めた。それからどうなったか?どうにも。ジ・エンド。

 今彼は新しくバーを開いて経営を始めた。顔をだしたがそこそこうまくいっているようだ。それも私には腹が立つ。単純作業に逃げやがって。その証拠に彼の店には相変わらず胸を震わせるようなものはない。何も変わっちゃいない。

 私は彼の何事にもクールなところに最初から惹かれた。そんな彼の態度は頼もしかった。何事にも動じない、そんなふうに守られたのは子どものとき以来だったから。

 だけど彼の生活はそのクールさゆえに、すべての俗世から関係なく自動で進みはじめていた。まるで自転車の車輪が空回りしているように。彼はそれを知ってか知らずかクールなままで、私はそれが恐ろしかった。私に対してじゃなくてもいい、なにかに感情を明らかにすることがなくなった彼が、私は恐ろしかった。そして、一緒にいるのに彼の心を揺さぶることも出来ないような、感情をあふれさせることも出来ないようなそんな程度の女である自分にも嫌気がさした。だから私は彼を傷つけてみた。彼が怒るのを見たかったから。私は彼のファムファタルになりたかった(あるいはエムに、あるいはヴィオリータに)。私のために感情をあらわにしてくれるような存在に。だから彼を傷つけた。彼のクールさにこれまで甘えていたのはほかでもなく私だったのに。

 では、私は自分がしたことを後悔しているか?

 答えはノーだ。私は幸せになるだろう。この新しい恋がダメになっても、たとえ恋という方法自体がダメでも、私は幸せになるための他の何かを見つけることが出来ると思う。なぜなら私は逃げないから。向き合うこと、戦うこと。

 彼は今頃きっと私のことを忘れようとしているだろう。そして赦そうとしているだろう。私はもうとっくに赦されているのに。しかも彼が考えるべきことは赦すことではなくて赦さないことなのに。

 彼のファムファタルにはなれなかった私だけど、いつか、暗くて、逃げられなくて、彼をむしばんでいく夜が訪れたとき、少しでも私の事を思い出してくれたらいい。出来れば機嫌が悪いときとか寝ぼけた顔とかではなく、なるべくきれいな姿で。一番に思い出さなくてもいいけど、私のなにかが彼のどこかに残っていてそれが彼をあたためてくれればいい。

 私はそれを心から祈る。祈る以外に私に出来ることは何もない。これからも。絶対に。

正しいことと正しからざること(村上春樹ブッククラブに参加して)

課題図書:『木野』

 

 その日私は、彼氏と大喧嘩中だった。

 前の夜に電話で喧嘩して、電話を切った後に大泣きして、あまりよく眠れないまま、朝その本屋に向かった。せっかく楽しみにしていた日だったのに、最低の気分で。

 だけどその日の課題図書『木野』を読み、みんなで話をして、私は自分がなぜこんなに怒っているのかがわかった。

 「正しからざることをしないでいるだけでは足りないことも、この世界にはあるのです。」

 これだ。小説の中のこの言葉が答えだった。

 私の彼氏は、クールだ。優しく、そしてクール。電話も毎日してくれて、会える週末は私のために時間を空けてくれ、例えば私が昨日のように怒っても冷静だ。まるで何も感じていないように。そうそれは「木野」のように。

 だけどなぜ自分が怒っているのかわからずに混乱している時にそうされると、怒っている私の方が悪いみたいに感じられる。頭が悪くて、わがままばかり言っている贅沢ものみたいに。

 彼はクールで、もちろんなにも間違っていない。だけど彼のその態度は私にとって「正しからざることをしない」状態だとその時感じた。「正しいこと」をしてくれよと思って、私は頭の血管が切れたのだと思う。この場合の「正しいこと」とはなにか。例えば会えるかわからないけど突然会いに来る、とか。飛行機のチケットでもなんでも取ってくる、とか(今回の喧嘩の直接の原因は旅行がテーマだったもので)。クールから飛び出して、危険を冒すということ。

 そういう衝動や情熱がない彼に悲しくなってしまったのだと思う。木野の奥さんも。その結果、彼女の場合は浮気をして、彼の気持ちが動くかどうかを試してしまったのではないのだろうか。

 そんな奥さんの気持ちがその時の私には一番近く感じた。

 だけど、ブッククラブで皆の話を聞くうちに、こういう衝動は普通は抑えている人が多いものだと知った。クールに見えていても何も感じていないわけではなくて、処理に時間がかかることがあるということを初めて知った。

 それを知った時、私は仲直りをしに彼に会いに行こうと思った。

 木野の奥さんの方法(浮気をして彼の心を破壊してみること)以外に、彼の心を動かす方法がないかを探りたい。私と同じような表現の仕方をしないだけで、何かを思ってくれているのならそれを知りたい。

 彼にそう言ったら、笑ってくれるだろうか?

ページを開かなければ誰も知ることはなかった(小説『君の名前で僕を呼んで』感想)

 「映画を見る前に読むべきか、映画を見てから読むのか、どちらがよいのか誰にもわからない。」

 帯のこの惹句は正しいと思うが、映画を気軽な気持ちで見てしまった私は、選ぶ余地なく原作の小説を映画の後に読むことになった。映画のエリオはその美貌を大きなスクリーンから垂れ流すだけで自分の思いをあまり語らないから、全編エリオ目線で語られるこの小説は、映画の中のエリオがその美しさの奥で何を考えていたのかという答え合わせのようだった。

 その答えを以下に順不同で。

 

 

 僕を好きにして。奪って。いいのかと僕に訊いて、返事を確かめて。僕にノーと言わせないで。お願い、僕を傷つけないで。何か言って。ちょっと手を触れて、オリヴァー。僕を見て、僕の目に涙があふれているのを見て。夜に僕の部屋をノックして、君のために少しドアを開けておいたのに気付いて。部屋に入ってきて。僕を奪って、服を脱がせて、めちゃめちゃにして、僕に目隠しをして、手を取って、考える事は要求しないで。服を脱いで、オリヴァー、そしてベッドに入ってきて。君の素肌を感じさせて。髪に触れさせて。足を僕の足に載せて。たとえ、何もしないとしても、君を抱き締めさせて。夜の闇が広がったら、不安な人達の物語を読んで。やめないで、やめないで、お願いだからやめないで。やめたら僕を殺してくれ。一度だけでいい、冗談めかしてでも、ふと思いついてでもいいから、振り返って僕を見て。そして、僕を君の名前で呼んで。

 

 

 どのページからも溢れてくる、欲望の言葉たち。吐き気がするほどの、頭がくらくらするほどの、むせかえり息が苦しくなるほどの、たくさんの要求たち。相手に何をしてほしいか。小説の中でエリオはずっとそんなことばかりを考えては身を焦がす。映画を見て私たちが感じた以上に隙間なく。

 相手に何かをしてほしいのが恋、相手に何かをしてあげたいのが愛。恋と愛の違いをそう定義する人がいる。もしそれが本当だというならば、エリオのこの言葉たちは、彼が正真正銘のまぎれもない恋をしていたことを裏付ける。そして、彼らに未来がなかった理由も、他でもなくそれで、相手に望むばかりの恋が愛に変わる見込みがなかったからだと私は思う。

     あんなに常に求めていては、求められていては、彼らはきっとどこにも行けない。だからやっぱりこの恋は、恋のままであの夏に閉じ込めてしまうしかなかったのだ。一冊の本の中に、閉じ込めてしまうしかなかったのだ。

アラサーOL、花晴れにハマる(ドラマ『花のち晴れ』感想 前編)

 道明寺とつくしの恋にあこがれて早十ウン年。花男は私たちの恋のバイブルだった。大人になったらあんな恋が出来るんだと思っていた。

 だけど小学生だった私たちは彼らと同じ高校生時代をあっという間に過ぎ、気づけば花男セカンドシーズンを眺めている。長生きはしてみるものだ。

 私たちはあの時花男のなににあこがれていたのだろう?

 それはお金持ちと付き合うことではない。イケメンと付き合うことでもない。それはきっと世界にたったひとりだけいるはずの、自分を認めてくれる人に出会うこと。そのたったひとりのことを、自分も心から信じられるということ。

 

 ところがどっこいですよ。このセカンドシーズン何かが違う。

 かつてまさに花男から教わった「運命の人はひとり」という定説に革命が起きた。ひとりしかいないはずの運命の人がこのドラマには明らかにふたりいる。音ちゃん(杉咲花)を奪い合う神楽木(平野紫耀)と天馬くん(中川大志)。どちらを選んでもきっと幸せになれる。そしてどちらを選んでももう一人を選ばなかったことを一生後悔するだろう。得られるもの、失うもの、喜ぶ顔、悲しませる顔。これらが頭の中をぐるぐる回って混乱し、どちらを選ぶ方が「幸せ」になれるかなんて、この時点では誰にもわからない。わかるわけがない。だいたい「幸せ」ってなによ?そこに周囲の人の「幸せ」まで合わせて考えた日には答えなど出るはずはない。

 でも音ちゃんは選ぼうとしている。選ぶということはなにかを捨てようとしている。

 

 神楽木が音ちゃんを江戸川と呼ぶとき、道明寺がつくしを最後まで牧野と名字でしか呼ばなかったことを思い出し、「花シリーズ」マインドの確かな引継ぎを感じる。好きな人のことを初めて勇気をだして下の名前で呼んでみた時の空気の凍り方を私たちはこの十ウン年で知った。私たちは大人になった。だからあと半分、見守るしかないんだ。音ちゃんが何を選ぶか。選んだ先に、そして選ばなかった先に何があるのかを、最後まで。