ヘイセイラヴァーズ

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旧姓木野(短編小説feat.村上春樹『木野』)

 私は俗だ。私は俗な人間の代表で、彼はもう透明になりかかっていた。毎日一緒にいたのに。

 私が浮気をしたのは、彼を傷つけてみたかったからだ。彼が私の浮気を知り、めちゃくちゃに傷つくことを夢見ていたといってもいい。でも実際はどうだったか?あのエックスデーにベッドルームの中を見た彼は一瞬固まって、それから扉を閉めた。それからどうなったか?どうにも。ジ・エンド。

 今彼は新しくバーを開いて経営を始めた。顔をだしたがそこそこうまくいっているようだ。それも私には腹が立つ。単純作業に逃げやがって。その証拠に彼の店には相変わらず胸を震わせるようなものはない。何も変わっちゃいない。

 私は彼の何事にもクールなところに最初から惹かれた。そんな彼の態度は頼もしかった。何事にも動じない、そんなふうに守られたのは子どものとき以来だったから。

 だけど彼の生活はそのクールさゆえに、すべての俗世から関係なく自動で進みはじめていた。まるで自転車の車輪が空回りしているように。彼はそれを知ってか知らずかクールなままで、私はそれが恐ろしかった。私に対してじゃなくてもいい、なにかに感情を明らかにすることがなくなった彼が、私は恐ろしかった。そして、一緒にいるのに彼の心を揺さぶることも出来ないような、感情をあふれさせることも出来ないようなそんな程度の女である自分にも嫌気がさした。だから私は彼を傷つけてみた。彼が怒るのを見たかったから。私は彼のファムファタルになりたかった(あるいはエムに、あるいはヴィオリータに)。私のために感情をあらわにしてくれるような存在に。だから彼を傷つけた。彼のクールさにこれまで甘えていたのはほかでもなく私だったのに。

 では、私は自分がしたことを後悔しているか?

 答えはノーだ。私は幸せになるだろう。この新しい恋がダメになっても、たとえ恋という方法自体がダメでも、私は幸せになるための他の何かを見つけることが出来ると思う。なぜなら私は逃げないから。向き合うこと、戦うこと。

 彼は今頃きっと私のことを忘れようとしているだろう。そして赦そうとしているだろう。私はもうとっくに赦されているのに。しかも彼が考えるべきことは赦すことではなくて赦さないことなのに。

 彼のファムファタルにはなれなかった私だけど、いつか、暗くて、逃げられなくて、彼をむしばんでいく夜が訪れたとき、少しでも私の事を思い出してくれたらいい。出来れば機嫌が悪いときとか寝ぼけた顔とかではなく、なるべくきれいな姿で。一番に思い出さなくてもいいけど、私のなにかが彼のどこかに残っていてそれが彼をあたためてくれればいい。

 私はそれを心から祈る。祈る以外に私に出来ることは何もない。これからも。絶対に。