ヘイセイラヴァーズ

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記憶の中にしかない店(エッセイ)

 その居酒屋は、渋谷駅を降りてタワーレコードに向かう途中のビルの5階にあった。

 海の底をイメージしているのだろう、青っぽい照明とゴツゴツした岩に囲まれているようなデザインの店内。真ん中は広いフロアになっていて、かなり大勢で行っても座れるような長いテーブルもあったが、そのテーブルがいっぱいになっているのは一度も見たことがない。変な絵画に派手な壁紙。たばこの煙に燻されながらその店は渋谷の真ん中とは思えないほどいつでもガラガラで、何時間いすわっても何も言われなかった。メニューも不思議で、異常にでかいカラアゲとか、むしろパフェというカテゴリーなのではというようなクリームたっぷりのカルーアミルクとか。成長期だったのでよく食べすぎて飲みすぎては、気持ち悪くなった。

 私たちは本当にその店によく通った。そしていろんな話をした。大学の講義の、好きな人の、就活の、人生の、話。今後の人生の地図が膨大に広がっているように思えた最後の年に、不安だけど、窓から見下ろす夜のまちが自分たちのものだと感じられた20代の始まりに。

 さて、その店には(私たちの間で)名物の店長がいた。無駄にきちんとしたウェイターの制服を着て、呼び鈴を呼んでもなかなか来ないけど、呼んでない時には私たちのテーブルにしゃべりにくる。雇われ店長なのに、すいてるし大体でいいよ、と勝手にアルコールを濃くしたりトッピングが多かったりしていた。普段道で会ったら本当に普通のおじさんなんだろうが、あの店にいる彼は完全にその空間を自分の支配下に置いていた。楽しんで、とか、丁寧な接客、というのとははるかにかけ離れているけど、あの店にはあの人がいるな、とその居酒屋が入っているビルの前を通るたびに思ったものだ。

 あの時一緒にその店に通っていた友人たちは、もちろんもう今は、そんな風にだらだら飲む時間を取れるわけもなく、転職してみたり、結婚してみたり、引っ越ししてみたりいろいろと忙しい。今にも、今にも無くなりそうだから行ってみなくちゃねと影口を叩かれながらもその店はなかなかどうして持ちこたえていて、このままずるずるとずっとあるだろうと気を抜いた矢先、その店が、ついになくなったことを私たちは知った。完全に油断していた。そしてまた思い知る。もう戻れない暗い席と汗をかいて張り付く前髪の感覚。深刻なおしゃべりとそのすべてを吹き飛ばしてしまう笑い。私たちの後ろでまた一つ扉が閉まってしまったこと。

 私たちは何度となくなじんでいた空間を失っていく。心の中だけに留まる、二度と戻ることのできないたくさんの場所。私たちを見守って、そして見送ったあの店とその守人の魂はあの場所でまちの地層の一部になるのだろう。そんなこと彼らに言ったら、うれしくもなさそうに鼻で笑われるだろうと思うけど。