文書2(短編小説feat.村上春樹『スプートニクの恋人』)
小学校を卒業して、中学校、高校と上がっていくにつれて、ぼくを「にんじん」と呼ぶ人はだんだん減り、ついにいなくなった。それはたぶんぼくの風貌の変化によるものだと思う。部活で始めたアメリカンフットボールのせいで、ぼくの体は大きくなり、髪を短く刈って、細面でももしゃもしゃの髪でもなくなったから。ぼく自身は「にんじん」という呼び名を特に気に入っていたわけでも、嫌っていたわけでもないから、それがあっけなく使われなくなったことになんの感慨も感じない。
にんじんと呼ばれていた頃、ぼくは万引きが癖だったみたいだ。どうして他人事かというと、記憶がないからだ。時間が経って忘れたわけではなくて、当時から「盗った瞬間」の記憶がまるで蛇に飲み込まれたみたいにすっぽりとなかった。店に入るときはそんなことをするつもりはない。だけど気がついたら次のシーンでは目の前に自分が盗ったとされる品物が並べてある。どれだけきつく怒られても、親が泣いても、ぼくは本当にそれが自分がやったことなのかどうかよくわからなかった。全部夢の中の出来事みたいだった。手の中にもなんの手ごたえもなかった。
アメリカンフットボールを始めてから、ぼくは万引きをしなくなった。スポーツで昇華なんて言うと教科書みたいで恥ずかしいが、本当にそうなのだから仕方ない。一時期は本当にそのスポーツのことで頭がいっぱいで、夢を見る余裕さえなかったのだ。
ぼくが万引きを何度か繰り返して、ついに担任だった先生が呼びだされたあの真夏の夕方。暑くて狭い部屋の中で、先生は汗をかきながら、表情だけはやけに涼しげだったことをぼんやりと覚えている。その部屋から抜け出した後、クーラーの効いた喫茶店で先生がぼくに話した言葉も思い出せる。いなくなった人のことを、先生は「友だち」と呼んでいたが、その人が先生にとって”特別に”大切な人なんだろうということは子どもだったぼくにもよく伝わった。その時先生がぼくの母親とフリンをしていたことなんてもちろんわかっていたけれど、そのこととは別に、ぼくはその先生を信頼することにしていた。先生は今すぐにでもその友だちを追って、自分もあちら側に行ってしまいそうに見えた。だけど実際には先生はその出来事の後もどこにも行かず、ぼくが卒業するのを確かに見届けた。なにかが先生をつなぎとめたのだ。
彼女はぼくのこの話を、お風呂上がりのアイスのふたを開けるのに夢中になりながら聞いている。片膝を立てて、時々、ほ〜、というやる気のないあいづちを打ちながら。テレビの方をチラチラ見ながら。
「あっ、スプーン忘れた。」
立ち上がった彼女の背中で茶色くて細い髪の毛が揺れる。台所から戻ってきた彼女は持ってきたスプーンの先を僕の顔に突きつけて言った。
「でもにんじんくん、夢の中にも責任はあるのよ。」
彼女と出会ってから、ぼくはよく思い出すようになった。大切な人に突然消え去られた先生のことを。そして消えていった先生の友だちのことを。ぼくは今目の前にいるこの女の子にはそんなふうに消えて欲しくないと思う。どうにかしてここに繋ぎとめたいと思う。ぼくの手の中にはまだなんの手ごたえもないけれど。
文書1(村上春樹ブッククラブに参加して②)
課題図書:『スプートニクの恋人』
私は今、語れば長い運命のとりあえずの帰結として、東京の小さなアパートの一室にいる。時刻は午前4時少し過ぎだ。もちろんまだ夜は明けていない。ワールドカップの試合を応援していた善良な人々はやっとベッドに入って夜明けまでのつかの間の睡眠を貪らんとしている。遠くの街では若者たちの無数のハイタッチが、地表を覆っているだろう。それでも私のいるこの部屋の空気はまだ青く澄んでひっそりと冷たい。
(きっと)世界のどこにいても、私はこの時刻が一番好きだ。この時間は私ひとりのものだ。6時になれば、私はいつものように歯を磨いて少し化粧をして、それから満員電車に揺られていつものオフィスに向かうだろう。そのようにいつもの一日が始まる前に私はこのひと仕事を終えてしまいたいと思う。
私はなぜ最後にすみれが「戻ってくる」という結末を信じて疑わなかったのだろう?たしかによく読めば、彼女が「戻ってくる」描写は、曖昧ではあるがKの夢である気配が濃厚だ。こちら側に残ったK、半分ずつ分裂したミュウ、あちら側にいってしまったすみれ。この最終構図はパーフェクトで美しい。でもそれだけじゃない気がする。もっと単純に考えてみようではないか。単純に、単純に。
私はつまりおそらく、すみれに幸せになってほしかったのだ。だってあまりにもかわいそうじゃないか?家族ともしっくりこず、一番愛したひとには拒まれて、夢も叶わず、パジャマ姿のままであっけなくあちら側に行ったきりだなんて。なんのロマンチックさも余韻もなく煙のようにあっさりと消えただけだなんて。そのままではあんまりだから、私はお節介にもすみれにもう一度戻ってきて、そして幸せになってほしかった。いや、違うな。もう少し正確に記述してみなくては。正確、正確。
私は、すみれに不幸せになってほしくなかったのだ。書きながらものを考えるところ、世間に馴れない感覚、午前3時に人に電話をかける傲慢さ。それらが他人事とは思えなくて、私は彼女と自分をはじめから重ね合わせていたから。まるで親のように、自分の分身に不幸せになって欲しくなかっただけのことだ。
そうよね?
そのとおり。
すみれは最後に、あちら側でもこちら側でもない、Kのもとへ戻ってきたのだと私は思う。あちら側で見た未知の「幸せ」でも、ミュウに拒まれたこちら側の「幸せ」でもなく、Kという「不幸せではない」結末を取ったのだと。「そのへんにうようよしている世間知らずのトンマな女の子」の立派な一員のすみれなら、そして私ならばきっとそうするだろうと思うのだ。
この文章は自分自身に対するメッセージだ。でもこれはブーメランのように闇を切り裂くこともカンガルーの魂を冷やすこともない。ずっとここにある。気温の上がり始めたこの部屋の中で静かに光っている。わたしにはそれがわかる。
八乙女光に魅せられて(舞台『薔薇と白鳥』感想③)
クリストファー・マーロウはかわいそうな男だ。
最後に殺されるからじゃない。
ずっとずっと、かわいそうな男だった。
なぜだろう?
金がなくて、知り合いに無心し続ける情けない男。
住むところもなくて、酒場で仕事をするまでに落ちぶれた小汚い男。
好きな女すら、生理的に抱くことのできない男。
尻の穴に焼きゴテを突き刺されて死ぬヘンリー王に共鳴してしまう男。
いつも自分がよりたくさん傷つく方を選んでしまう男。
そう、だけど彼には演劇があった。
脚本があり、文学があり、物語があった。
彼はそれらを愛し、愛され、そして最後の瞬間までそれらを楽しんで死んだ。
それは彼にとって”人生”を楽しむことと同義だった。
彼はあんなにしゃべり続けているのに、その言葉は私たちの胸にまで届かない。
彼の言葉はすべて“台詞”だったから。
だってそうだろう?
彼の言葉はあまりにも、ひとつひとつが完璧で、美しすぎて、かっこよすぎた。
彼にとって、周りの人間はすべて役者だった。
彼の目の前の舞台に登場して台詞を言う登場人物にすぎなかった。
だけどそうだろう?
私たちは誰もが演技を続けている。どこからが演技で、どこからが本物かなんて境界線は、本人しかわからない。本人にすらわからない。
だけど彼の生きる姿は、不思議と心に残る。
それはそうだ。
うそっぱちの台詞と人間たちで、どれだけ人の心を動かせるかが彼の仕事で、生きる意味で、人生だった。彼は優れた劇作家だった。
演劇に身も心も捧げて、そしてそれと心中した彼は、幸せだったのだろうか?
確かに最後の最後まで自分の脚本通りに物語は進み、それを彼は楽しんだだろう。
ライバルで同類のシェイクスピアからのアドリブ付きで、好きな女の大根芝居とともに、優雅な薔薇の衣装を着て、最高の舞台を演じただろう。
だけどだからこそ、私は彼をかわいそうに思ってしまう。
オチを知らない人間こそが、本当に芝居を楽しむことが出来ると思うから。
誰より芝居を愛した彼は、芝居しか愛することのできなかった彼は、本当に芝居を楽しめたのだろうか?
そんな事を言ったら彼はきっとこう言うだろう。
「俺の人生だ、好きにさせてもらう。」
わかった。もちろん異論はない。
だけど私は絶対に忘れない。忘れられない。
ナイフで心臓を刺された瞬間の彼の顔。
その時、貴方は何を見ていた?
脚本の1ページは忘れ去られて(舞台『薔薇と白鳥』感想②)
「かたいこと言うなよ。芝居なんてどうせ全部うそっぱちなんだから。」
娼婦街のジョーンの部屋にいるマーロウ。手すりにつかまって空を見ている。
そこにジョーンがはしごを使って窓から入ってくる。
マーロウ おい、そんな服着て梯子なんか登ったら破けるぞ。
ジョーン 仕方ないじゃない、ここにふたりでいることがばれるわけにはいかないの。
マーロウ この前だって来てただろ。
ジョーン この前はネッドも知ってたから。私はネッドの妻なのよ。
マーロウ あ~ちくしょう、そうだったよ。
(ふたりで向き合い、変な空気になる)
ジョーン で、どうするの?ウィルを助ける方法を思いついたんでしょ?だから私をここに呼んだんでしょ?私は何をしたらいいの?
マーロウ 待てよ、いっぺんに質問するな。聞かれている身にもなってくれ。
(ジョーン、不服そうな顔をしながらも黙る )
マーロウ 脚本が出来上がったんだよ。
(マーロウ、机の上に脚本の束を投げる。ジョーンそれを拾い上げて冒頭に少し目を通す)
ジョーン これって…
マーロウ そう、ウィルを助けるための脚本を書いた。君にも台詞がある。
ジョーン (脚本を読みながら)うそでしょ…
マーロウ (腕を大きく広げて大げさな身振りをしながら)『一度しか言わない、お前には俺を超える才能がある。』けっこう泣かせるだろ?
ジョーン (マーロウを指差しながら芝居がかった声で)『俺は俺のやり方でケリをつける。』うん。たしかにかっこいいけど彼はうまく説得されるかしら?
マーロウ 俺は説得じゃなくてあいつともう一度勝負がしたいんだ。あいつはどんなアドリブを言うだろうな。
(ジョーンは脚本に夢中で聞いていない)
ジョーン この偽金製造機って、あの時の?まーだもってたの?(あきれて)
マーロウ そう。ここに眠らせておいたアイディアが役立つときがやっぱりきた。なあ、ジョーン。俺たちはうそをついて金に換えてる。俺たちは偽金製造機そのものなんだ。しかもうまくつけばつくほど褒められる。だからつけるうそは全部ついてやる。
(ジョーンは脚本をさらに読み続ける、部屋はだんだん暗くなってくる、マーロウはろうそくの火を見つめながら杯を揺らしている)
ジョーン ねえ、この結末…『マーロウ、スイスへ夜逃げ』って。
マーロウ そう!おもしろそうだろ?
ジョーン それはだめよ。ちょっとマジで危険すぎるわ。
(マーロウ、目を見開きそして大声で笑う。ジョーンは訳が分からず不満げに口を曲げる)
マーロウ 危険?なあ、考えて見ろよ。失敗するかしないか、ぎりぎりを見せるから芝居は面白いんだ。安全な結末なんか誰が観たいかよ。
(マリーは複雑な顔をしていたが自分の昔のアイデアを覚えていてくれたことにうれしさをおさえきれずにっこりしてしまう)
ジョーン ねえ、キッド。あなたってやっぱり天才よ。
マーロウ は?当たり前だろ、俺を誰だと思ってる?ロ…
ジョーン ンドンいちの人気劇作家、クリストファー・マーロウ。でしょ?
(マーロウ、笑ってやれやれその通りのポーズ)
ジョーン もっともっと出し惜しみしないで書けばいいのに。
マーロウ 俺だってなあ、いろいろ忙しいんだよ。
(ジョーンはほほえむ、マーロウは立ち上がって熱っぽく話し出す)
マーロウ だけどこれが俺の最高傑作になる。役者もそろってる。セットもばっちり、(客席の方を見て)観客もこんなにたくさんだ。幕はもうすぐあがるんだ!
(マーロウの目だけが爛々と輝いている。ジョーンは困ったように眉を曲げて、でもほほえんで彼を見守っている。彼がウィルに盗まれない脚本を書くんだと息巻いたときのように)
ジョーン じゃあ、身なりもちゃんとしなきゃ、髭もそって衣装もそろえて、ね。
ジョーンが世話を焼こうとしてマーロウはいつも通り眉間にしわを寄せたままされるがままになっている。舞台はまわり、次のシーンにうつる。
だけど観客はみんな知っている。
台詞を言い終えた役者は、あとは舞台から退場するだけだということを。
伏線を宝石のように散りばめて(舞台『薔薇と白鳥』感想①)
どうしてすぐに気が付けなかったのだろう。
あの時のマーロウに、あんなに豪華な薔薇の衣装を自分で用意できるはずがない。
それが出来たのはなぜか?
すべては、芝居だったから。
私たちはシェイクスピアに騙されたのだ。演じている髙木雄也があんまり純粋な男だから。
そうでなければ説明がつかない。
役者本人(八乙女)、役者本人が演じる役者本人(八乙女が演じている”八乙女”)、役者が演じている役(”八乙女”が演じているマーロウ)、役者が演じている役が演じている役(マーロウが演じている”マーロウ”)。グラデーションのように永遠に細分化し続ける演じ分けの層。誰がどのシーンのどの台詞、どこまでがどの段階の役としての演技なのかそうでないのか、誰にも説明できなくなっている。
そしてそれは舞台の上だけの話ではない。私たちの日常だって同じようなものだと気付かされる。誰がどこまで演技でどこからがそうでないのか、それはいつもわからなくて、私たちはいつだって周囲の人間に騙されている。もしかしたら自分自身をも騙し続けている。そのつもりがないとしても、そうせずには生きられない。
現実と演劇。本心と台詞。どこまでも曖昧で、だけどいつも私たちのすぐ横に引いてあるその境界線。
舞台の上で炸裂していた赤と白の火花のせいで、いまだに目が眩んでいて。
人生をフィクションとして生きる、その哀しさと美しさが頭を離れなくて。
そして、境界線を見極めようと今もずっと記憶の中に目を凝らし続けていて。
私は今、とても混乱している、そして苦しい。どうしようもなく。
男役が演じる女役の凄味(宝塚宙組『天は赤い河のほとり』感想)
私がずっと気になっていたのはネフェルティティ(澄輝さやと)。若い子たちは大丈夫。好きな人といればこれから幸せになっていく。どの時代を選んでも、それは変わらない。だけどネフェルティティは(それにしてもすごい名前だな)、これまで何十年もずっと思いを寄せる人を忘れられずにここまで来ている。禁断の恋の相手の弟のマッティワザ(愛月ひかる)は、すっごく悪っぽくてかっこいいけど、そして姉の事を気にしてはいるけれど、その実かなり楽しんでいる。自分のための場所をその時々で見つけながら、自由に生きている。
ずっと胸に同じ人への思いを秘めて生きるとはどんな気持ちなのだろう。彼女たちは心の中で何を育てているのだろう。愛?恨み?過去の思い出を?
私はネフェルティティに教えたくなった。弟は結構楽しく生きていますよ、と。あなたも心配せず、今を生きてほしい、と。
もどかしいです、私は。もったいないのです。あなたはとても美しいのです。そんな言葉も届かないほど彼女は遠くに行ってしまっているのだろうか?
マジで引きずりすぎ(『君の名前で僕を呼んで』感想)
始めにたくさんの予防線を張らせてください。
私は同性が恋愛対象という訳ではありません(たぶん)。だから、本当に同性を好きになるという気持ちが理解できるわけではないかもしれない。
私は腐女子ではありません(そうか?そうか?)。だから、とにかく作品数をこなしているだろう彼女たちよりも考えは浅いかもしれない。
私はフェミニストではありません(意気地なしなので)。だから本当はジェンダーの問題について軽々しく口を出すべきではないのかもしれない。
だけど私はこの作品を見て、読んで、芸術としてのBLとよばれるものの魅力の秘密に手の先が触れたように気がしている。
その秘密はまさにこの不思議なタイトルに隠されている。相手の名前で自分を呼ぶ、自分の名前で相手を呼ぶ。こんなふうに自分が相手で、相手が自分で、文字通り溶け合って境目がなくなることができるのはBLの最大の特徴だろう。異性同士はどうしても異なる部分を探るのが楽しかったりもするから、一体感となると同性同士のほうが強いように思う。
「オリヴァーは僕以上に僕自身なんだと、何年も前ベッドで彼が僕に、僕が彼になってから、オリヴァーは人生の紆余曲折を経たあとも永遠に僕の兄、僕の友、僕の父、僕の息子、僕の夫、僕の恋人、僕自身であり続ける」
この言葉にあるように、同性の恋は、恋愛面においての”すべて”ではなく、本当に自分自身の”すべて”であるということがわかる。自分の分身、いや分身よりもっとリアルに、相手が自分自身であるということ。自分と相手のつなぎめがないその広がりと、同時にどこにもいけなさという矛盾が、相反して胸に迫る。それが魅力の源泉だと、私は思うのだけど。