ヘイセイラヴァーズ

本、舞台、映画、歌、短編小説、エッセイ、アイドル、宝塚歌劇、など、、、☺

アオハルかよ…(『桐島、部活辞めるってよ』感想)

 高校を舞台にした小説がニガテだ。もっと言えば、漫画も映画も舞台もニガテだ。心がキューっと掴まれているような気持ちになる。または肩を持ってガタガタ揺さぶられているような。だからニガテだった。この小説も好きになれないだろうと思っていた。

 スクールカースト。この小説にも描かれているそれが、私はとにかく嫌いだった。私はどうしても嫌だったのだ。例えばグループにいつづけるために面白くもないのに笑ったり、「上」のグループに気を使ったり、「下」のグループだからといって気が合う子と仲良くしないようにしたりすることが。だから私は教室での人当たりはものすごく良くしておきながら、昼休みだけは群れずに図書室で本を読んで過ごすこと。そうやってバランスを取っていたつもりだった。だけど完璧にバランスを取ることは出来なくて、やっぱり私は皆の目にどこか「変わり者」と映っていたと思う。(あるいはそれも自意識過剰かもしれないけど。)高校生にとってそれは割とキツイことだ。

 カーストの「上」「下」に関係なく、その教室にいる全員に悩みがあって、ひとり残らずもがいていること。そんなことはその頃にもなんとなくわかっていた。だから私は私のやり方で、みんなはみんなのやり方で、それぞれ戦って卒業したのだからそれでいいのだと何度も自分に言い聞かせたし、それは正しいと思う。だけどやっぱり私は高校にまつわる色々がずっとニガテだった。

 私はこの小説を読んで気がつく。私はスクールカーストの「上」にいたかったんだなと。「上」にいる子たちのことを自分を殺して周りのことばっかり気にしていると心の中でバカにして精一杯孤高を気取っていたけれど、それはやっぱり自分を守るためで、私はその子たちのぱっちりした目、大きい笑い声、たくさんの男友だちがうらやましかったんだ。そこに入れない自分を自分のプライドが許せなかったんだ。

 大人になるって最高だ。竜汰や沙奈のような子も必ずどこかで精神的な危機がやってくるし、涼也や武文にも必ず恋人が出来ることがわかるから。そこには自由がある。だけどそれでも、高校時代を楽しめた人はそれだけで何かに勝っている。キラキラしたものを心の中に仕舞い込んでおける。だからもう仕方ない、本当にもう仕方ない。

 この小説を映画化した吉田大八の解説で当時19歳だった作者のこの作品についてこうある。

「大人になってから(安全圏に逃げ切ってから)、ある程度の余裕を持って振り返るのとはわけが違う。」

 私は気がつく。読み終わった後、少し前だったらもっと鮮烈に感じていただろう心や肩を掴まれているような感覚が今は淡くなっていることに。私はもしかしたらついに安全圏に逃げ切ったのかもしれない。生々しかった高校時代を遠くに感じることができ始めたのかもしれない。

 この小説を勧めてくれた人は、私が青春小説がニガテだと顔をしかめるとこう言った。

「俺なんかね~、来世のために読んでんだよ。」

 

!!!!!(衝撃)

 

 ここまでの安全圏発言はまだまだ出来ないけど、青春こじらせ女の私もついに楽しめました!よかった!