ヘイセイラヴァーズ

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オモシロキ コトモナキヨヲ オモシロク(宝塚星組『ANOTHER WORLD』感想)

 この真実は、果たしてこの世でもあの世でも同じみたいだ。

 あの世(アナザーワールド)で繰り広げられるこの舞台は、オモシロクできるところは貪欲に、でもそれ以上に、オモシロキコトモナキ何気ない会話の言い方一つ、仕草や表情の一つを取っても、出演者全員が全力でオモシロクしようと魂を込めているのがひしひしとわかる。そしてそれによって、登場人物の造形がひとりでも違っていたら、演じる役者がひとりでも違っていたら、全く違う舞台になるだろうというディテールの流動性、同じ舞台は二度とないというライブ感、生々しいつかみどころのなさを強く感じた。

 パンフレットにはこのように書いてある。

「人間にとって死は不安なもの、怖いものであることにちがいはありません。(中略)それを落語では笑い飛ばして、地獄もそんなに悪い所ではないですよ、こんな楽しい所なら行ってもいいんじゃないですかと思うような地獄を描いているのです。」

 死からの逃避、または浅はかな考えゆえの笑いではない。むしろすべてを知っていてそれによる悲しみを味わい抜いて、その上で笑っているということ。だからこそ笑っているということ。その世界観は、深刻に考え込んで眉間にしわを寄せていることだけが人としての深みではないことを思い知らされる。

 紅ゆずるの魅力は、軽快なアドリブ、個性のある美貌、隠しきれぬ愛情深さ。それだけではない。私はまんまと彼女に笑わせられながら発見していた。粗筋ではなくディテールを楽しむ主義と、すべてを深く考え抜いた後にあえて楽観的な態度を貫く渋み。落語に深く通じるこの新しい二つの魅力こそが、紅ゆずるとそして今の星組にしかない輝きなのだろうと。

インタビューかえるくんについて(短編小説feat.『かえるくん、東京を救う』)

 おう、俺はかえるや。正真正銘、どっからどう見てもかえるやで。え、わかってるって?なんや、それならなにしにきたんや?おおう、わかってる、みなまでいうな。俺に取材したいんやな?かえるの生活、梅雨以外はどうやって暮らしてるかってな?それきになるっちゅう若者多いねん。なにしてるゆうてもなあ、人間さんみたいに本読むだの音楽きくだのくだらないことぐだぐだ考えるだのできへんもんなあ。あ、今シャレなの気づいてくれはった?かんが、え、る。ははははははは。は~、気づいてたんやったら笑ってくれへんと。

 人間さんっていえばなあ、こどもさんがたはこわいなあ。このまえもとっ捕まえられて足引っこ抜かれそうになったもんなあ。おとなさんはわりと親切にしてくれることが多いんやけどな、こどもはダメや。なにいっても聞いてもらえへん。俺たちにとってこどもさんがたに会うのは天災みたいなもんでな、まずつかまったら終わりやと覚悟せな、神出鬼没やしなあ。まあ俺は機転がきくからな、隙をついてジャンプしたんや。かえるの一世一代の大ジャンプ、お前にも見せてやりたかったでほんま。

 え?そのことが聞きたいんじゃないって?あああああ、かえるくんのこと。俺の耳にも入ってるで。え?かえるに耳なんかあるんかって?そんなせっしょーな、あるに決まってるやないか。なきゃどうやって今会話してると思うとるんや、ほんましょーもない。

    で、かえるくんなあ。気の毒なことやったでほんま、みみずくんと戦ったんやろ?えらいことやなあ、なんでそんなことしようおもたんやろなあ。げろ。でもな、ここだけのはなしなあ、かえるくんは正直かえる界では浮いてたらしいで。ほら、あの大きさやろ、あの話し方やろ。えーかっこしいやって悪く思ってる奴らもいたみたいや。俺はけっこう好きなほうやけどな、かえるくん。

  おおおおっと、もうそろそろいかな。え、どこっておどりに行くに決まってるやないか。昔からかえるはおどるもの、知らんのか人間のくせに。ちょうじゅうぎが、見たことあるか?おれもおまえも神さまの前ではみな平等。おどりつづけるのが生き様なんや。神さまってのはなあ、コスモスやで、コスモス。勉強しろ、人間さんよ。

 げええこ、うぐっく、げえええええええこおお、うぐっく。

 いまいくで。はなしの途中でごめんやで。じゃあきいつけてな、おたがいな。

 

もういいから、踊れ!!(村上春樹ブッククラブに参加して③)

課題図書:『神の子どもたちはみな踊る

 

「神様、と善也は口に出して言った。」

小説はこの一文で終わる。

この場合の神様は何をさすか?

最初これは善也の中の倫理観、価値観、道徳のことだと思っていた。自分の中にいる神様的存在に呼びかけているのだと。自分自身を頼みにするようになったということだと思っていた。

だけど、ブッククラブを通して、その考えに変化があった。この神様は彼の中にいるものではないのかもしれない。

私たちは例えば、自然には逆らえないと言う。そんな風にどうしても、いくら考えても、自分では動かすことのできないもの、揺るがすことのできないものを善也は神様と呼んだのではないか?

いや、だけどそもそも、それを考えている自分自身、この生命って一体なんなのか。ふと思えば自分の存在自体、生命自体が最も猛烈に不思議で、かつ揺るがすことのできないことだ。

だからこの場合の神様は、自然という意味と限りなく近いが、同じではない。自然をも含有した、生命の営みの不思議そのもの。それに彼は神様と呼びかけた。心の中でつぶやいたのではない、口に出して自分の外に向かって呼びかけたのだ。

さくらももこの『コジコジ』という漫画で、コジコジは両親に手紙を書く。だけど両親の住所がわからない、顔も名前もわからない。困っているうちに手紙は風に飛ばされてしまう。その時どこからか声が聞こえてくる。

コジコジ コジコジ てがみありがとう おとうさんとおかあさんは いつもコジコジと一緒にいます 水の中にも土の中にも 木の中にも草の中にも 風の中にも音の中にも空の中にも 光と闇の中にも…それはあなたが宇宙の子だから…」

私たちも一緒で、宇宙の子であり、宇宙という名の神の子だ。妖しげな言い方だけど生命を説明できない限りそれは揺るがすことのできないことだと思う。だから私たちはみな踊らなくてはならない。

そんなことを考えながら携帯を開くと、祖母からメールが届いていた。

 「今朝ねおきて台所に行ったらなにか、黒っぽいものがいる、カエルでした、外に出たいだろうと思ってドアを開けてやったら体の向きを変えて、じっと見てから、ピヨンピヨンととびながらでていきました、あんな小さい体をしてそれなりに、知恵があって、生きている」

私たちは考え続け、踊り続ける。この世のあらゆる事象とともに。私たちにはそれが出来るしするべきだ。だけど祖母はかえるくんとも普通に友だち。そのことがどんなに心強いか。

アラサーOL、花晴れにハマる(ドラマ『花のち晴れ』感想 後編)

 TVで宇多田ヒカルの「プロフェッショナル仕事の流儀」をぼんやり見ていた。カメラはレコーディングの様子を追って、彼女は「初恋」という曲についてこれから演奏を録音する楽器奏者たちに説明していた。

 

 「この曲は恋の喜びの歌でもあり、終わってしまった後に初恋だったんだと気がつく歌でもある。」

 

 この言葉を聞いて「花のち晴れ」というドラマの主人公は馳天馬だったことを私は知る。彼はずっと、音に切ない恋をしていた、たしかにしていた、ずっと昔から。そんな音の手を彼は最後まで離すべきではなかったのだ。だけどそんなふうに叶わない恋にも意味はあったのだと、そんな恋に出会えただけでも幸せだったのだと、思うことのできるとても悲しい日が彼にくることを、すべての失恋にくることを、私は願う。

劇評『薔薇と白鳥』

RESPECT WONDERLAND/ROSE & SWAN

 

◎私たちの生きる現実は舞台の上の演劇と同じなのか

 

 メタフィクションというジャンルをどのくらいの人が知っているだろう?ネットでそれは「フィクションについてのフィクション、小説と言うジャンル自体に言及・批評するような小説のこと」とある。この舞台はまさに、そのメタフィクションに違いなかった。

 ストーリーは実在の劇作家クリストファー・マーロウとウィリアム・シェイクスピアが“もしも”出会っていたらという友情譚、そしてシェイクスピアの抱えた秘密を巡る歴史ミステリーだ。

 マーロウ役の八乙女光シェイクスピア役の髙木雄也はジャニーズグループHey!Say!JUMPのメンバーだから、当然の事ながら彼らのことを見に来ている観客が多い(私を含め)。ジャニヲタ用語でいわゆる「現場」と化した劇場。だがふたりを見に来た観客をいつしかストーリーの力で巻き込み、引きずり回し、だましおおせるような舞台だと私には感じられた。

 観劇後ほんの少しちらつく違和感をたぐっていくと私たちはとんでもない勘違いをしていたことに気が付く。ヒントはたくさんあったのだ。例えばあのマーロウに、あんなに豪華な薔薇の衣装を自分で用意できるはずがない。プライドの高いあのマーロウが、簡単に人のことを自分より才能があるなどと認めるわけがない。それが出来たのはなぜか?それは、すべて彼自身が書いた”台詞”だったから。すべては、芝居だったからだ。

 私たちはだまされる。シェイクスピアを演じている髙木雄也があんまり純粋な男だから。マーロウを演じている八乙女光があんまり可愛い男だから。脇を固める出演者の演技があまりにもスマートだから。みんな何食わぬ涼しい顔をしているから、舞台の上で炸裂する赤と白の火花に目が眩んでいるから、私たちは気が付くことが出来ない。回る舞台の裏側でシェイクスピアが髙木雄也に戻ってしまう瞬間が三階席からだけ見えるのだって、セットがやけに無骨なのだってすべて演出なのだろう。

 役者本人、役者本人が演じる“役者本人”、役者が演じている役、役者が演じている役が“演じている役”。グラデーションのように永遠に細分化し続けるその演技の層は、誰がどのシーンのどの台詞、どこまでがどの段階の役としての演技なのかそうでないのか、誰にも説明できなくなっている。演劇の中に演劇が入れ子になっていて、その境界線がわからなくなっている。

  そしてそれは舞台の上だけの話ではなく、私たちの日常だって同じようなものだと気付かされる。誰がどこまで演技でどこからがそうでないのか、それはいつもわからなくて、私たちはいつだって周囲の人間に騙されている。そしてもしかしたら自分自身をも騙し続けている。そのつもりがないとしても、そうせずには生きられない。

 現実と演劇。本心と台詞。私たちは混乱する。舞台の上の憧れの人間たちが生きる現実と、舞台の下にいる私たちが生きている現実の、どこが違うのかわからなくて。

ヒマについて(エッセイ②)

 忙しい。毎日ほんとに忙しい。完全に心を亡くしてます。たっぷりOL業通勤ご飯お風呂家事、時間がマジでない。女子力ってなにそれオイシイノ状態。そりゃ髪乾かすのも雑になります。服も適当になってきます。イカイカン、これは鬱の循環。オーエルイントーキョーはとにかく忙しいってハナシ。

 大学に通っている時飲み会に行くと必ずひとりは自分がどれほど忙しい時間を縫って今ここに参加しているのかっていう自慢してるやついたよなあ。あいつら今も忙しくしてるのかなあ(ご丁寧なイヤミ)。自分がどれほど色々なところから必要とされているか。あんた、そんなに無理しなくても、と酔った頭で思いながらも、少しうらやましかったりしたものです。

 でも今になると思う。ヒマ。これこそが一番の財産だ。「うわ~なーんもすることね~!!」これこそがどんな宝石より金銭より(?)自分が一番求めているものだと。

 「ぼんやりしている心にこそ恋の魔力が忍び込む。」

 シェイクスピアはそういった。たぶんそれは真実だ。シェイクスピアが言うことだもの。そしてきっと恋だけじゃない、あらゆるステキなことはヒマの隙間にやってくるから。

 単純にヒマそうな女の子たちはかわいいしね。何にもしないで足ぶらぶらさせている子を見ると声をかけたくなる、誰だって。

 ヒマしようっと、もっと。私1人がヒマしたところで地球の自転が止まるわけでもないんだし。せいぜい公転が滞るくらい。それは秋に取り返すとしてぼーんやりしよう。新しいことはしないで同じ本を繰り返し読もう。アイスでも食べよう。新しい水着を持ってプールでも行こう。……はっ、またヒマな時間を埋めようとしてしまった。イカイカン、何もしないようにしなくっちゃ。

 そんなふうにヒマになったらどうするかということばかりぼんやり考えている今の私は、もしかしたら案外ヒマなのではないかとも思うんだけど。

 

 ヒマそうな女の子がかわいいミュージックビデオをここで。


Base Ball Bear - short hair

どこか遠くの都会から遊びに来たあの子が町にいた夏休み。

他の荷物はなーんにも持たず文庫本一冊だけを持ち歩いていた。

僕はその本のタイトルすら、彼女に聞くことはできなかった。

読み終わった後、彼女が秋に向けて、何を決意したのかも、もちろん聞けないまま。

 

さらに。


きのこ帝国 - 東京 (MV)

あなたの帰りを待つだけの日々をこんなにしあわせに感じるなんて。

私はこの気持ちがなくなる日が必ずくるだろうということが怖い。

だけど今はこのままでいよう。今日の夕食のことだけを考えよう。

すべてはその日が来てから、考えよう。

 

 夏はヒマするのにもってこいだ。どうせ脳みそまで溶けて何も考えられないし。

アオハルかよ…(『桐島、部活辞めるってよ』感想)

 高校を舞台にした小説がニガテだ。もっと言えば、漫画も映画も舞台もニガテだ。心がキューっと掴まれているような気持ちになる。または肩を持ってガタガタ揺さぶられているような。だからニガテだった。この小説も好きになれないだろうと思っていた。

 スクールカースト。この小説にも描かれているそれが、私はとにかく嫌いだった。私はどうしても嫌だったのだ。例えばグループにいつづけるために面白くもないのに笑ったり、「上」のグループに気を使ったり、「下」のグループだからといって気が合う子と仲良くしないようにしたりすることが。だから私は教室での人当たりはものすごく良くしておきながら、昼休みだけは群れずに図書室で本を読んで過ごすこと。そうやってバランスを取っていたつもりだった。だけど完璧にバランスを取ることは出来なくて、やっぱり私は皆の目にどこか「変わり者」と映っていたと思う。(あるいはそれも自意識過剰かもしれないけど。)高校生にとってそれは割とキツイことだ。

 カーストの「上」「下」に関係なく、その教室にいる全員に悩みがあって、ひとり残らずもがいていること。そんなことはその頃にもなんとなくわかっていた。だから私は私のやり方で、みんなはみんなのやり方で、それぞれ戦って卒業したのだからそれでいいのだと何度も自分に言い聞かせたし、それは正しいと思う。だけどやっぱり私は高校にまつわる色々がずっとニガテだった。

 私はこの小説を読んで気がつく。私はスクールカーストの「上」にいたかったんだなと。「上」にいる子たちのことを自分を殺して周りのことばっかり気にしていると心の中でバカにして精一杯孤高を気取っていたけれど、それはやっぱり自分を守るためで、私はその子たちのぱっちりした目、大きい笑い声、たくさんの男友だちがうらやましかったんだ。そこに入れない自分を自分のプライドが許せなかったんだ。

 大人になるって最高だ。竜汰や沙奈のような子も必ずどこかで精神的な危機がやってくるし、涼也や武文にも必ず恋人が出来ることがわかるから。そこには自由がある。だけどそれでも、高校時代を楽しめた人はそれだけで何かに勝っている。キラキラしたものを心の中に仕舞い込んでおける。だからもう仕方ない、本当にもう仕方ない。

 この小説を映画化した吉田大八の解説で当時19歳だった作者のこの作品についてこうある。

「大人になってから(安全圏に逃げ切ってから)、ある程度の余裕を持って振り返るのとはわけが違う。」

 私は気がつく。読み終わった後、少し前だったらもっと鮮烈に感じていただろう心や肩を掴まれているような感覚が今は淡くなっていることに。私はもしかしたらついに安全圏に逃げ切ったのかもしれない。生々しかった高校時代を遠くに感じることができ始めたのかもしれない。

 この小説を勧めてくれた人は、私が青春小説がニガテだと顔をしかめるとこう言った。

「俺なんかね~、来世のために読んでんだよ。」

 

!!!!!(衝撃)

 

 ここまでの安全圏発言はまだまだ出来ないけど、青春こじらせ女の私もついに楽しめました!よかった!