ヘイセイラヴァーズ

本、舞台、映画、歌、短編小説、エッセイ、アイドル、宝塚歌劇、など、、、☺

頭の中の君はまるで(Hey!Say!JUMPライブ感想)

 ダンスのコンテストでプロが卵たちにアドバイスをしていて、その内容というのが「技術が同じくらいのレベルの人たちの中で頭ひとつ抜け出すには、どうしようもなく痺れる、忘れられないくらいにかっこいいシルエットなり表情なりがパフォーマンスの中にあるかどうかという魅せ方が重要」というものでとても感銘を受けたのだけれど、それが本当ならば彼らはやっぱりものすごいプロフェッショナルだった。

 私が頭から離れないのはメンバーが三列に並び、全員でジャケットの肩を外して半脱ぎ状態で音に合わせて左右に揺れるという振りで、それの何が良いかというと、その振付が終わると思ったタイミングからさらに数ビートその動きが続くというところなのだ。いわばフェイントですね。女の子はフェイントに弱いですね。

 ライブを頭の中で思い出すときにこの一つの振付の映像を中心に全体の記憶が広がっていくので、一瞬の力、その集中力と瞬発力は本当に大切なのだとわかる。脳内にジュッと焼きゴテを押し付けられたようなひと場面。雷で打たれたようなその衝撃。

 そしてそういう一瞬にすべてを賭けるという気持ちはファンも一緒で、ライブのために髪型を考え、洋服を考え、席はどこか、周りに同じメンバーが好きな子がいれば無言のエールを送り合いまたはジャブを打ち合い。こっちが出演するわけでもないのに意味もなくメイクを直し、席に座ってみたりペンライトの調子を確かめてみたり。集まった全員がそんな感じで、あんなにわくわくが集結した多幸感のある空間はちょっと他にはないのではないかと思う。

 だけどまあそんなことを落ち着いて思い出せるようになったのはやっと最近で、直後はまさにビタミンC注射をバッチリキメたあとという感じ。私のその日の日記のページにはただ一言「銀杏」と絶筆のように書き残されていた。きっと彼らの身体が小さくてぎゅっと引き締まっていて、そして笑顔がツヤツヤだったということを言いたかったのだろう。イケメンは劇薬だなあ、あんまり乱用してはいけないなあ、しばらくはきしめんみたいな男の子の顔を眺めて暮らしていこうと心に決めた私であった。

プリンセスの変貌(映画『シュガーラッシュオンライン』感想)

 好きな男性のタイプを友人と話していて、本気でケンカになりそうになったことが一度だけある。友人は「しっかりした性格でお金と学歴があるひと」が好きだと話した。私は「自分が好きなことをしていて顔がかっこよくて年下」が好きと言った。ケンカになりそうになったのは意見が対立したからではない。彼女が私のタイプを聞いた瞬間に「でもアンタだって結局いつも私と同じ堅実なタイプを彼氏に選ぶじゃん」と言ったからである。

 私がその言葉にカチンときたのは結局核心を突かれたからなのだと思う。口ではめちゃくちゃなことを言いながらも最終的には安定を選択してしまう私の性格を真っ向から指摘されたように感じたから。

 それにひきかえ、この「シュガーラッシュ2」の主人公の女の子ヴァネロペは強い。安定よりもスリルある自分の夢を選ぶ。これまで自分が手にしていた愛を捨てる。それはそれはあっさりと。エンディングまでその選択にはなんの妥協も救いもない。選んだ人生があり、それによって捨てられた側がある。その鮮やかな姿は衝撃的で、その点においてこの映画は女の子にとって強力なアジテーション映画であると思う。

 私は自分の夢を、そして大切な人が抱える夢を応援したいと思う。だけどそこにもしこれまで大切に思っていたことが含まれないとしたら?私は”運命”というものが怖い。その人の意思とは関係なく、巻き込み飲み込む抗うことのできない強い力。なにかを差し出さざるをえないそれに出会ってしまうことが怖くて、そして怖いからこそ、強く憧れてしまう。惹きつけられてしまう。

 だけど、と私は思うのだ。私たちはもう大人。出会ってしまった運命と今抱える現実のバランスをつけることができるのではないかと。力技でネジ伏せてその両方を取ることができるのではないかと。ヴァネロペがラルフにテレビ電話をすることでその関係を保っているように。

 とにかく私は全国の女の子に伝えたい。どんなエロ映画よりホラー映画よりこの映画は彼氏と見に行かない方がいいということを。あなたの彼氏がよっぽどリベラルかのんき者でない限りは。彼氏の横で自分の行き方来し方そのバランスを見直してしまって、つながれている手を必要以上に強く握り返して怪しまれる羽目になるから。

FOUNTAIN(短編小説)

 長い舞台が決まると、私の生活は俄然規則正しくなる。朝は必ず7時に目が覚めるようになる。だけど今朝はなにか様子が違っている。いつもどおりに布団を足元に折り返して、床にゆっくりと足をつける。このごろ急に寒くなってきている。床はつるつるととても冷たくて、たぶん今日が今年一番に冷え込む日だろうと冷静さを取り戻すために私は思う。見慣れない部屋。ぺたぺたと窓に近づいて外を見ると、そこには中庭があって、真ん中に大きな泉があった。白い大理石でできた女性が大きなカメを掲げていて、そこから水がこんこんと湧き出ている。窓に息を吐きかけると表面が白く染まる。二分後に毛布をずるずると引きずりながら彼が起きてくる。どんな顔をしていいかわからなかったので、私はとても曖昧な笑みを浮かべた。彼はとても冬が似合う。私の隣に立って、さみいー、とつぶやく。

 「ねえ」

 「ん?」彼は長い前髪のあいだからちらりと私の顔を見た。

 「ここどこ」

 「ここって?」

 「ここだよ、この場所。昨日のこと、全然覚えてないの」

 「全然?」

 「うん」

 「まったく?」

 「申し訳ないけど」

 もともと色の白い彼の顔は寒いせいかますます白く、ほとんど紙のようだった。でも、目のふちだけがうすく赤くなっていて、私はなんだかそれがとても好ましく思えた。ここは夢の中だよ、と彼はさらりと言った。さっき、さみいーと言ったのと同じような調子で。

 「夢の中?」

 「うん、そう」

 「誰の?」

 「僕らの」

 「夢…ということは覚めることもできるの?」

 「そうしたいのなら」

 彼はそう言って、窓に手をゆっくりと押し当てて、鼻を近づけた。

 「これは、泉?」

 「うん、そうだよ」

 「どうしてここにあるの」

 「この泉が枯れるまで、僕らはここにいることが出来る」

 悪くない、と私は思った。

 私の顔はかなり整っている。だから人から誘われて女優の仕事をしている。役を演じることは好きだ。だけど私の本当の夢はバレリーナになることだった。2年前講師だったバレエダンサーとの不倫がばれ、私は追放された。狭い世界なのだ。結局のところ。

 今隣にいる、ガラスに息を吹きかけて絵を描いて遊んでいる男だって、本当は親友が五年間片思いしている人だ。もう一度私は彼の顔を見る。彼もこちらを見る。ウェーブがかかった長い黒髪。太い眉に奥深い目。薄くて赤い唇。その唇がゆっくりと動いて私の名前を形づくる。その時私は家族より友情より、過去より未来より今、目の前に現れたこの人を選ぼうと決心した。この大きな泉が枯れて無くなるまでずっと、彼と一緒にいてみようと思った。何がそう決心させたのかは、私にはわからない。

冬がはじまるよ(エッセイ⑦)

 「冬がはじまるよほらまた僕のそばですごく嬉しそうにビールを飲む横顔がいいね」という歌を私は寒くなってくると必ず、居酒屋で家で、相手に横顔を見せつつビールを飲みながら自分で歌う。毎年のことで周りの人たちはいいかげん嫌になってきていると思うけど、冬になるとどうしてもこの歌が頭によぎって止まらない。 

 そんなことを思いながら見上げた窓の外の空は朝からずっとグレーで、今にも雪が降り出しそうだ。見るからに寒そうで、私は思わずにんまりする。出かけなくてもいい冬の日は、外が寒そうであればあるほどうれしい。見ても見なくても変わらないようなテレビ番組の笑い声をBGMにして、暖房でこれでもかとあたためた部屋の中で、こたつに入ってパワーブックを立ち上げ、私はひとりでこの文章をパタパタと打っている。携帯の充電も満ち、かえるの形の加湿器からはしゅんしゅんと音を立てて水蒸気が上がる。暑くなってきた足先だけをこたつの外に出すと冷たくて気持ちいい。

 妹が初めて雪を見たときもたしか朝からこんな天気だった。ふたりで昼寝をしていて、私が先に目を覚まして窓に近づいて外を見ると、真っ白いしっかりした大きな雪の粒が次々に空から落ちてきていた。少し遅れて起きだした妹はそれを見た瞬間、驚いて目をみはった。それが私にとっての彼女との最初の記憶だ。至近距離で見た彼女のその目の色と白く染まっていくたくさんの屋根の景色。 

 そもそも私はこういう寒い雪の日に生まれ、そして雪にまつわる名前をつけられた。自分が雪と一緒にこの世界に降りてきたという事実とその証の名前は、自分に自信を失って悩む夜に何度も私を救った。だから、私にとって冬はなんとなく落ち着く季節だ。朝が絶望的に起きられいというだけで。

 突然携帯が鳴り、彼からのメッセージが届く。これから帰るという文字とピースの絵文字。私は文句を言いながらいそいそこたつから抜け出して、ガスをつけてお風呂を沸かす準備をする。駅から十五分。彼が家に入ってくるまでに雪は降り始めるだろうか。ビールを両手に抱えて冬の匂いをまとって体を冷やして帰ってくる彼を待つこの時間が、すっかり冬の楽しみになっている自分に気がつく。もしもいつか私がいなくなったあと、彼が冬になったら思い出してくれればいいなと思う。あの歌と、私と、私のこの幸せな気持ちについて。

その微笑みはまるで(宝塚宙組『異人たちのルネサンス』感想)

 真風涼帆の歌声を聴くと涙が出そうになる。

 自分の思いをあまり言葉に出さずに、いつも素敵な微笑みを浮かべていて、そうやってそこにいることがみんなにとって当たり前のような、物静かなトップスター。

 彼女は今までも、これからもどんな思いを自分ひとりの中に抱えているのだろう。そんな風に感じてしまうのは、彼女の役作りのためなのだろうか。彼女が演じる男性はいつも、あらゆる感情を、人目にさらすのにちょうどいい程度に抑制している人物のように思う。まるで空調の設定を変えるように、時と場合に応じて、感情を微妙に調整し続けているようなひと。歌声にもそれは現れていて、彼女はなにかを押し殺すように、奥歯で息を噛みしめるようにして発声する。視線は伏し目がち、私たちを安心させるように小さくうなずいてみせながら。その様子は、切ない。切なくて、私は彼女の歌で泣くのかもしれない。

 『異人たちのルネサンス』の舞台パンフレットの見開きには、レオナルドとしての彼女の写真が載っている。ベッドに横たわって、なにかを考えている様子が上から撮られている。それはどことなく、だけどどうしてだかとても親密な雰囲気の写真だ。左手には鉛筆、茶色く光っている短い巻き髪と炎のような野草のような模様が刺繍された洋服の首元は少し乱れていて、視線は画面の右上の方をさまよっている。そう、視線。あと1秒長く見つめていたら、こちらを見てくれそうなのに、今この瞬間には絶対にこちらを向かない瞳。あと数ミリ動かしてくれれば触れられそうなのに、決して動くことはない手。それは写真だからではない。彼女の男役はいつだって、あと少し、もうちょっとだけと思わせるもどかしい手の届かなさ、曖昧さで私たちを焦らす。

 

 劇中でレオナルドが歌う「その羽根広げれば自由に空を飛べるのに」という歌詞は真風自身に向けられているように思う。自由に空を飛べる力があるのにあえて陸に留まっているような少し哀しそうな彼女の微笑みは、見る人の心を打つ。まるでモナリザの微笑みのように。

チョップスティックの夢(短編小説)

 国道をひたすら北に車を走らせて、真夜中過ぎに道路沿いのレストランに入った。なんでもないチェーンのファミレス。オレンジ色の電球の上のほこり、原色の文字が光る看板、少し油っぽいソファ。店員はメガネをかけたバイトの若い男の子ひとり。私たちは壁に面した一番はじの席に向かい合って座って、メニューを読む。料理を選ぶのに、いつも通り彼は私より数分長く時間がかかる。

 注文と引き換えに運ばれてきた箸をつまみあげて、彼は言う。

「箸って英語でなんて言うか知ってる?」

チュッパチャプス?」

 彼は笑う。

「そんなわけないでしょ、惜しいけど」

 私は少し考えて思いつく。

「チュッパスティックだ」

チュッパチャプスに引っ張られすぎ」

 彼は笑う。私が大好きな顔で。

 チョップスティック、彼はそうつぶやきながら、セットのサラダを食べている。

 私が「二種盛りステーキ定食」、彼が「アメリカンハンバーグ定食」を食べ終わって食後のコーヒーを飲みながら、この店にあるアイスクリームの10種類の味の中でお互いが何を選ぶかを当てるゲームをしていると、私たちのほかに1組だけいたお客さんが、席から立ち上がった。ちょうど店の対角線上のテーブルに座っていた美人の姉と美形の弟。だけどきょうだいにしては彼らは物静かで、そしてとても幸せそうに見える。

 彼らが帰ってしまうと、店の中は本当に私たちだけになってしまった。バイトの男の子の姿も見えない。窓の外にももちろん人は通らない。なんだか本当に終わりみたいだね、と私が言うと、本当に終わるんだよ、と彼が答える。

「俺たちもそろそろ行こうか」

 彼は立ち上がってコートを着込み始める。私が気に入って、10年着ればもとをとれるんだから、と説得して無理やり買わせた彼の紺のダッフルコート。

  あと少しで終わるなんて信じられない。だけど本当に終わる。海沿いの道を走っている途中だといいなと私は思う。あのボロい青の車と、そして私たちふたり、朝日が昇る瞬間に、きっと。

モテるということ(エッセイ⑥)

 恋愛ルールブックを侮るなかれ。

 『上級小悪魔になる方法』という本を読んだおかげで、私の大学生活はまずまずモテたと思う。例えばイケメンの先輩と古着屋さんデートをした。男友達に夜道で突然手をつながれたり、「幸せにするよ」という世にもキザなセリフでコクられたりもした。あるいはこれらは、モテたというより、その年齢特有の悪い病気が蔓延していただけにすぎないかもしれないけれど。

 このルールブックに書いてあるモテるためのテクニックの一つに、とにかくまず「相手の話を熱心に聞く」というものがあって、これは簡単なようでいて危険なほどに効果的だ。本を読んだ直後に鍛え上げたこのテクニックによって、私は上記のモテの思い出をこしらえ、今でもその気になれば大抵の男の子を落とせる気がしている(オオキクデスギタソレハウソ)。そしてこのテクニックはのちに、こっそり尊敬している男性が飲み会で言い放った「今の世の中は誰も幸せじゃないから、人の話を聞く人が不足している」という言葉に裏付けられることになる。

 ところが、である。そのときに一番好きだった男の子は決して私に振り向いてくれることはなかった。この本に書いてあるテクニックを、私は彼にはどうしても、何一つ使用することは出来なかったのだ。照れるし沈黙は怖いし自信はないし、ドキドキしすぎてあることないこと自分からしゃべりまくってしまう。彼はいつだってそれを笑って聞いてくれて、だけど、彼自身が一体何を考えているのかは、一度も私に話してくれたことはなかった。

 人はさびしい生き物だ、と人々は言う。たしかにそうだ、と私は思う。飲みすぎて気持ち悪くて死にそうになっている夜中や、隣で死んだように眠っている誰かの顔を眺めている朝方に、私はそれを感じる。自分はたったひとりで生きていて、だけど誰かとつながっていたいと思う。アムロちゃんの歌に「踊る私を誰か、優しくずっと見ていて」という歌詞があるけれどまさにそれで、自分が一生懸命この世で踊っているさまを誰かに見ていてほしいと思ってしまう。その結果が、恋愛であり、インスタであり、そして私の場合は文章を書くことでもある。

 この本のあとがきで作者はこう書いている。

「ときには、失敗することや苦い経験があったって、別にいいじゃない?」

 そう、別にいい。なぜならモテた思い出はもちろん、モテようとあがいたこと、そして結局モテなかったことも含めてそのすべてが、今では自分の欠かせない一部になっていると、私は感じているから。それは私が、誰かとつながろうとした確かな証なのだ。

 

※『上級小悪魔になる方法』 蝶々