ヘイセイラヴァーズ

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私もいつか彼を求める(宝塚『エリザベート』感想)

 私は『エリザベート』のいったい何にこんなに惹かれているのだろう。

 黄泉の帝王トートへの憧れ?爛熟したハプスブルク家の悲しい滅亡?民衆たちの圧倒的な怒りのエネルギー?そのどれもであり、また、そのどれでもない。

 きっとそれは、出てくる人々全員に、それぞれの強さがあり、そして弱さがあるところだ。フランツは優しいがマザコンエリザベートは気高いが自分勝手、革命軍は理想に燃えているが作戦を練っている時の表情はまるっきり悪人、民衆はひとりひとり愛を抱えていて、それでいてたしかに愚かだ。

 そして完全な存在であるはずのトートでさえも、エリザベートを愛したことで弱さを抱えてしまう。

 

あなたは恐れてる。彼女に愛を拒絶されるのを!ーーーちがう!!

 

 エリザベートになんど愛を拒絶されようが自分の思いを伝え続けたフランツの方が、外堀を埋めていったトートよりも男っぷりが上であると私は感じる。『エリザベート』という物語はトートが「人間落ち」していく話であるともいえる。

 人間の不完全さとそれゆえの底知れなさ。『エリザベート』が描くその部分が、私がこの物語に強く惹きつけられ、同時に恐ろしく感じる理由であるのかもしれない。

 

踊るアホーに見るアホー(エッセイ⑤)

 8月の青森に、ねぶた祭りを見にいった。

 真夏のはずなのにすでにうっすら寒かったのは、雨のせいだったのだろうか。肝心のねぶたは濡れないように透明な袋で覆われていて、そのせいで中の光は少しだけやわらいでいる。雨の水滴のせいで、取り囲む跳人(ハネト)たちは皆キラキラ光って見える。女の子たちは朱色のたすきと膝下丈の浴衣を身につけていて(朱色と長め丈が今年の衣装の流行だそう)、濃い赤の残像が目の奥に残る。流行なんて気にせずに人より広く胸元を開けた集団の白い肌が眩しい。慣れた手つきで太鼓をたたいている好青年は、道端の観客に愛想を振りまきすぎて、今夜帰宅後きっと、可愛い彼女にしかられるだろう。普段はセンコーに楯突いているはずの男の子たちは派手に飾り付けた花傘をかぶって、争うように、誰にも負けないように、天に向かってハネている。

 渋ハロ(渋谷ハロウィン)の映像をテレビのニュースで見た時、私は夏に見たそのねぶた祭りの光景を思い出していた。東京にはああいう街をあげた祭りがない。踊れるようなディスコもクラブもない、日常と離れてオシャレしていく場所もないどころか普段の居場所すらない。東京の若者はそりゃ力を持て余すはずだ。渋ハロがあんなに過熱するのはそのせいだ。

 人々が濃い化粧をして普通ではない衣装を着て渋谷に集う様子はお祭りのようであり、一向一揆のようであり、革命前夜のようであり、デモのようでもある。なにに対しての?それはまだわからなくても、若者の力がひとつの街を、大人たちを動かしていることを心強く感じても良いはずだ。

 DJポリス以外の警察にお世話になるのはもちろん御免だけど、この若者だけのお祭りは、完全に統率される前のここ何年間かがいちばんおもしろいのだと思う。混乱を極めた戦国時代に多くの伝説が生まれたように。混沌と制圧の歴史は繰り返される。

 かくいう私は、いつも安全な道端やテレビの前にいて、それでもやっぱり少しだけ身体が疼く。参加しようかやめておこうか。その狭間をまだ揺れ動いている。

 あとは、若い者だけで。

 そう快く言えるようになるまでに、私も街もあと数年はかかるだろう。

あの場所で(短編小説feat.映画『ハナレイ・ベイ』)

 彼がハワイのハナレイ・ベイで鮫に喰われたという情報を私は先生から聞いた。外は雨が降っていた。

「いつですか」

 私は先生にそう尋ねた。先生はその事故があったのがいつだったか、という質問だと勘違いして、その時の様子を詳しく話し始めた。私が聞いたのは、彼がハナレイ・ベイに旅立ったのはいつだったか、ということだったのだけど。

 私は彼のことが嫌いだった。貸した雑誌に強く折り目をつけるところ、金遣いが荒いところ、すべての女の子が自分のことを好きだと思っているところ。ワガママで傲慢で数え上げたらきりがないくらいに。だけどあの、遠くの方にある何かとても大切なものを眺めているような、夢を見ているような目をそのままこちらに向けられたら、私はいつだって何も言えなくなってしまう。そういう私自身のことを私はいちばん嫌いだったのかもしれない。

 一度彼の家の玄関で靴を履いている時に、彼のお母さんがちょうど帰ってきたことがある。私は彼女の黒目がちな目を見た瞬間に「あ、同じだ」と思った。たぶんこの人も彼のことと、彼に振り回される自分のことがどうにもならないくらい嫌いだろう、と思った。

 そう思ったら、その狭い玄関に立っている彼女に何か言わなければと感じたのだけど、彼が何も言わずに先に出て行ってしまったので慌てて後を追いかけた。あいさつすらできなかったことをそのあとしばらく後悔し続けた。

 それから五年後、私はある街角で彼女に会った。信号待ちをしている時に不意に声をかけられたのだ。私はアッと声が出そうになってしまった。突然で驚いたからではなく、彼女の姿があの日と何一つとして変わっていなかったから。

 彼女はあの日と何も変わらない目で真っ直ぐに私を見て、「これをあなたに返そうと思って」と鞄から小さな紙袋を取り出した。どこかでお茶でも、と言ってしまってから、彼女と話す話題など何一つないことに思い当たった。彼女は小さく首を振って微笑みらしいものを顔に浮かべて、来た道を戻って行った。紙袋の中身を取り出して見てみると、それはたしかに私があの日彼の部屋に置いて行った赤いレースの小さなパンツだった。太陽の光に透けて、それはとても綺麗な模様の影を地面に落としていた。

 私が今、ただひとつ望むことは、身も世もなく眠ること、そしてそのあとで彼のことを際限なく思い出し続けること。だけど世の中はなかなかそうはさせてくれない。今だって、まだカップに半分以上残っているコーヒーを諦めて、私はもう行かなくてはならない。彼がいる場所から、ますます遠く離れて。

 

 さよなら、ハナレイ・ベイ、さよなら。

この場所で(短編小説feat.映画『ハナレイ・ベイ』)

 ハナレイ・ベイに来て七日目。正直言って、最高だ。二日酔いだろうがなんだろうが、ワクワクしながら目が覚める。友だちも出来たし、英語も少し話せるようになった。こっちで出来た友だちとの写真と、英会話のスキルは日本に帰ってから(モテるために)最大限活用しようと思っている。

 だけどそんなことはどうでもいいくらい、一番最高なのはやっぱりサーフィンだ。日本の海でやるのと何が違うってわけじゃない。特に波を追いかけている時はなにも違いを感じたりしなくて今自分がどこにいるのかも一瞬わからなくなるくらいだ。だけど太陽が上がり始めた朝方の時間に、ボードにつかまって海をたゆたっていてふと顔を上げた時、遠い山の濃い緑とか海の表面の光り方とか、そんなのがやっぱりどうしても違っていて、そういうものの中に一人でいると、自分がその自然の一部であるっていうこと、自然も自分の一部だっていうことがとても誇らしくなる。やっぱりうまくは言えないけど、まあ簡単に言えば今ここで死んだら最高に気持ちいいだろうなって感じるってこと。つまりその感覚がfeel so good ってやつなんだろう。

 あとお気に入りなのは、海までつながっている長い長い上り坂。自転車に乗って、オヤジの遺品のダンボールから勝手に持ってきたカセット音楽プレーヤーを耳にはめて、覚えたメロディーを口ずさみながらその坂を上って、大好きな海が見えてくる瞬間がたまんない。母親はオヤジのことをほとんどなにも話さなくて、とんでもないクソヤロウだったってことだけしか俺は知らない。写真もない。ひどい話だ。だけどオヤジとは少なくとも音楽の趣味は合うんだろうなと、一緒に収まっていたカセットテープのコレクションのタイトルを見たときに思った。母親のピアノが録音されているテープが一本混ざっていたところは、いただけないけど。

 俺にサーフィンを教えてくれた女の子のことをこっちに来てからたまに思い出す。パサパサの髪を伸ばして、冬でも日焼けしていて、だけど丸顔でそばかすだらけでなんだか海に似合わないようなにこにこした子。

 彼女に初めて借りたサーフィンの雑誌を返した時、ハナレイ・ベイのページに強く折り目を付け過ぎだと怒られた。私もお気に入りなんだから、と怒っている彼女の顔を見ながら一瞬、俺は初めて将来ってもんについて考えていた。大した仕事にはつけないかもしれないけれど、ちゃんと働いて、それから毎年このハナレイ・ベイに彼女と、子どもたちとサーフィンをしに来るのだ。だから今も、彼女がここにいればいいのにな、と思っている。この瞬間が、その未来の一部だったらいいのにと思う。でもその気持ちさえもこの場所ではあっという間に遠くに行ってしまって、つかむことは出来ない。

 波が来る。十九歳。子どもでいてもいい最後の年。彼女からも母親からも頭がカラッポだと同じセリフを投げつけられたって、俺は俺だけの場所を見つける。もうすぐ、見つける。来る、波が。

 そいじゃ、さいなら。

続・火星の井戸(短編小説feat.『風の歌を聴け』)

 兄貴のウォルドには確かに考えすぎの傾向があった。宇宙の広大さに倦んで勝手にひとりで旅に出て音信不通になるくらいには。それに比べて俺は楽観的だと昔から言われている。世の中には結構おもしろいこともおもしろい奴も多いと思うし、第一、宇宙の広さを倦むなんて俺の仕事じゃない。器でもない。だけど俺は兄貴が消えた星をどうしても見てみたかった。だからここにやってきた。

 そこは美しい星だった。赤茶色の土地の表面には細かい砂埃が舞っていて、それが見渡す限り延々と続いている。それ以外にはなにもなし。ただ、数えきれないほどの穴がその表面に真っ暗な口を開けている。

 

穴 ● ● ●

 

 その穴のひとつの縁に腰掛けて、奥深くまで中を覗き込む。その中にもなにもなし。兄貴はここに入ったまま、出られなくなってしまったのだろうか。それはありえる。あいつはデカイ口を叩く割には方向音痴で、迷子になって泣きながら親に抱き抱えられて家に戻ってきた姿を何度も見たことがある。

 

「お前の兄貴とも話をしたよ。」

 風が俺の頬を撫でる。

「確かにお前の兄貴はここに入っていった。だけど迷わずに出てきた。」

 風はますますはっきりと吹き始める。

「そうして出てきて、拳銃の引き金を引いた。」

 拳銃?兄貴はそんな物質的なやり方は選ばないはずだ。それは本当に兄貴なのか?

 

 俺はまた穴の中を覗き込む。風が少しでも俺の背中を押したら、転がり落ちてしまいそうなほど深く、深く、頭を突っ込む。だけど兄貴の気持ちなんて、本当にひとかけらもわからない。

 

「歌ってくれよ」

 

 俺が頼むと、大気が微かに揺れ、風が笑った。そして再び永遠の静寂がやってきた後で、その歌は聴こえ始めた。兄貴には聴こえなかったこの風の歌。俺は終わりが来るまで自分で終わらせたりなんかしないだろう。なにの終わりまでか?それを考えるのは俺の仕事じゃないし器でもない。そんなことは、兄貴に任せておけばいいのだ。

ちほさん(短編小説feat.『石のまくらに』)

課題図書:『石のまくらに』

 

 ピクニックと連絡が来て思い出したのは、小さい頃よく読んだ「赤毛のアン」のこと。アンはある晴れた日、家の近くの花畑に親しい友達数人とピクニックにいく。お昼ご飯やお菓子を詰めたバスケットを持って。朝焼いたビスケットの匂い、色とりどりに咲き乱れている花の香り。私は目を閉じるといつでもそこに行くことができる。

 今日のピクニックもそれにかなり近い。秋の始まりの涼しい風に髪を揺らせて、お菓子やドーナツを囲んで肩を突き合わせて、私たちはそれぞれ考えて持ち寄った短歌をビニールシートの上に広げていた。東京のど真ん中、刈られたばかりの青い芝生の上。

 私の人生に、こんな場面が登場するなんて思わなかった。こんな絵に描いたみたいなひと場面が。夢みたい。

 ひとつの歌についてだれかが話をしているのを、私は音楽を聞くみたいにぼんやり聞いている。金色に光っているビールのカップを倒してびっくりしてすぐに起こして、少しだけ濡れてしまったスカートを見てみんなが笑う。

 私も笑いながら、それでもふと後ろに気配を感じる。それがそこにあるのがわかる。石のまくら。冷たくて固い。どこにいても、笑っていても、それは振り返るといつでもそこにあることを私は知っている。短歌を作る時私は必ずそこに頭を乗せる。そうして私は世界に首を晒す。ひんやりした風が首筋の肌をなでる。頭上に刃が光っているのが見える。それでも今のところそれはまだ光っているだけで落ちてはこない。

 私はその場所のイメージを離れて目の前の景色をもう一度よく見る。このあたたかくて明るい光に満ちている空気を、空を、緑を見る。そして目の前にいる人たちが、石のまくらに頭をつけることが決して無いように願う。彼らにとって枕はあくまでも柔らかく、空はあくまでも高く青くあるようにと願う。

言葉と香りに守られて(村上春樹ブッククラブに参加せずに)

課題図書:『ねじまき鳥クロニクル

 

 渋谷ヒカリエクリスチャン・ディオールのお店でクミコの香水を嗅いだ。綺麗な売り子のお姉さんに優しく勧められたけれど、私にはまだとても似合わない、白い花の香り。

 動物、血、政治、水。あんなにもいろいろなにおいがする小説のはずなのに、私の鼻にずっと残っていたのは、あの朝のクミコの首筋の香りだった。小さな青い箱と黄色いリボン、洗面台に流されたその液体の強い香りがあたりに漂い続けて最後までずっと消えなかったのだ。

「KEEP CALM AND READ MURAKAMI」

 そう書かれた販促のTシャツが嬉しかったとハルキさんはポパイの連載に書いている。私がハルキの小説に惹かれているのはこの「KEEP CALM性」が理由だと思う。日常をどれだけふつうに暮らして行くか。この一点をハルキの主人公たちはいつも意地になって守ろうとしている。どんなに普通でないことが持ちあがっても、彼らはスパゲッティを茹で、シャツにアイロンをかけ、買い物に行き、猫と遊ぶ。

 何も起こらぬ普通の生活を「地上」とするならば人は(少なくても私は)天を目指そうとする。より高く、よりよくなろうとする。だけどハルキの主人公たちはいつも、地下(損なわれた状態)に陥り、地上(普通)にいること目指す。その姿は、どんなに社会が、自分自身が混乱していても、KEEP CALMが物事に対する一番の反抗なんだと静かに告げているように見える。とんでもないことは向こうからやってくるのだから、私たちは普通の状態をKEEPするよう心がけるくらいがちょうどいいのだと。ちょうど水面下で必死で水をかいているアヒルのヒトたちが涼しい顔をしているように。

 オカダトオルとクミコの夫婦関係も同じだ。盛り上がるでもない、ラブラブなわけでもない、だけどまるで香水の瓶と、それが収まっていた箱のくぼみのようにしっくりした生活。それを取り戻すためにオカダトオルは井戸に潜り、人の家に忍び込み、そして戦場に思いを馳せる。

 この表面上の起伏のなさは、まだ若く、ホットで、力を持て余し気味の今の私にとって、憧れでもあり、恐ろしくもある。

 クリスチャン・ディオールの香水は、私が(もしも)結婚するときに、嫁入り道具として持って行こうと思う。あるいはお守りとして。全自動でずっと続いていくと思っていた日常の手に取れるかたちとして、そして新たなる反抗の証として。